「誰かに必要とされる」こと
それを求めていた
父のことは当然思い出した。もとは裕福な家の末っ子長男に生まれ、でも、中学で父親を亡くし、19歳のときには母親も亡くしたこと。東京で大学生をしていたが、それを機に宇都宮に戻ると、こっちがまだ子どもで何もわからないのをいいことに、会ったこともないような親族の誰彼が現れて遺産相続で相当大変だったらしいこと。マツダに就職して勤めた後は、わずかに残っていた資産を元手にサトーカメラを開業し、母と二人で頑張ったこと。私が高校を卒業するとき、やりたいことが見つからない私に写真学科のある大学に行くよう勧めてくれて、でも高校の推薦が取れず、父が書いた推薦状で私は東京の写真専門学校に行けたこと・・・。
そしてやっぱり、あのハガキを思い出した。東京に出て数ヶ月経ち、私の19歳の誕生日が近づく頃に父から届いた、「助けてくれ。店を手伝ってほしい」という一枚のハガキだ。
私は4人兄弟妹の次男坊。「俺より兄ちゃんのほうが出来がいいのに、なんで?」と思った。けど、「初めて親父から頼られた」という嬉しさもあった。そのときにはすでにやりたいことが見つかっていて、アパレル関係の仕事をするのが初めて自分の意志で決めた夢だったが、私はそれらすべてを捨てて、宇都宮に戻った。
「自分の夢とかやりたいこととかより、誰かに必要とされることのほうが大きい」という、それまで自覚していなかった自分の本性に、私は父のおかげで目覚めさせられたのだ。
家業に入ってからの悶々とした日々
自分を変えさせてくれた恩師
その反動でもないけど、1985年頃通っていたクラブのダンス大会でグランドチャンピオンになっちゃって、大手芸能プロの会長直々にスカウトされちゃって、あわや芸能界入りだったのは嘘みたいなホントの話だ。あのとき、もし電話番号を間違わずに教えてしまっていたら・・・。そう考えると、神様が後ろから止めるとか背中を押すとか、そういうことはあるんだろうなぁと思う。
そういう時期だったこともあり、取引先の社長さんに極真空手の先生がいて「君にピッタリの先生がいるから」と少林寺拳法を勧められたのも、今考えると偶然じゃなかった。今度一緒に道場に行こうと誘ってくれて、そこで初めて、「本気で向き合わないと、今この瞬間に集中しないとやられる」という体験をした。そして真剣勝負のおもしろさに没頭していった。
同時に、「表ではいいことを言いながら裏では品性を疑うようなことを平気で言う大人」ではない大人、真の意味で尊敬できるカッコいい大人が世の中にいることも――その少林寺拳法の先生のことだ――初めて知った。私は先生に憧れ、「先生みたいな大人になる」と一人で誓いを立てた。
そして、「尊敬される大人になりたい」と思ったが、道場でいくら頑張っても外に出たらただの兄ちゃんのままだから情けなかった。私の知らないところで「一番弟子だ」とまで言って私を評価してくれていた先生に対し、申し訳ないと思ったのだ。「あの人立派だね。あの先生の一番弟子だってね」と世間に一目置かせるくらい、社会的にも立派な人間になって、先生の恩に報いたい。そう思ったのだ。
最後発、2万番目からの下剋上
それでも私は父と兄を担ぎ続けた
ビジネス本も出版した。サトーカメラの圧倒的な県内シェアが話題となり最初に私の本が出たときは、「お前は次男坊でラクでいいなあ。お父さんとお兄さんが優秀だもんなぁ」と今まで言っていた人たちが、「お前がやってたのか! やっぱりそうか! そうだと思ったよ!」と一斉に手のひらを返した。それはもう見事な返しっぷりだった(笑)。
でも、それでも私は父を担ぎ、兄を担ぎ、自分はあくまでも№2であるべきだと考えていた。むしろ、自分はいずれ身を退き、二刀流のもう一本である、自らの手で全国を相手に道を切り開き地位を築き上げてきた「商業経営コンサルタント」に集中しようと思っていた。
その気持ちは去年父が亡くなったときも同じだった。肺に血が溜まって苦しそうな父が、「いいから寝てろよ」となだめる私を押し返して、「頼むぞ。サトカメを頼むぞ!」と最後まで繰り返していたときも、私は、「大丈夫だよ。ちゃんと兄ちゃんを立ててやっていくから」と答えていた。
一周忌で、重なった二つの言葉
そして「機は熟した」
そして創業記念日、私は兄に、「俺がやるよ! それが一番いいのかもしれないね!」と初めて遠慮せず言った。我欲のない素直な言葉だった。兄はその言葉を待っていたようにも感じた。心底ホッとした顔で、嬉しそうだったから。
私が勝手に役割として「自分は神輿を担ぐ側」と決め込んでいたせいで、かえって迷惑をかけていたのかもしれない。兄にも余計な重荷を負わせていたかもしれない。そう考えたら、なおさら、これからは自分がオーケストラの指揮者のようにチームを奏で、会社を引っ張ろう、と思えてきた。それが一番いい形だったのだと自分でも思うようになった。
ただ、自分の変化だけでその心境に行き着いたとは思わない。この1年の間に兄は兄でものすごく大きな経営上の決断をしてくれた。それがあったから、私は本当の意味で兄を認めることができたし、これからは担ぐとか担がれるとかじゃなくコンビで、一緒に社業を続けていけると思った。
12月には私も60歳になる。人生のピークと決めている60代の10年がいよいよ始まる。その前にこうやって気持ちを仕切り直す機縁に恵まれて、「不思議なものだなぁ。ありがたいなぁ」と感じています。
事務局 メイクオーヴァ
■10月30日 チラシ・Web改善セミナー
事務局 経営コンサルティングアソシエーション
■11月6日 新潟勝人塾
事務局 おぐま経営研究所
■11月7日 和歌山勝人塾
事務局 藤原農機
■11月13日 富山勝人塾
事務局 滑川ショッピングモール
■11月20・21日 サトカメ栃木MG
事務局 サトーカメラ法人営業課
■最新著書「地域密着店がリアルとネットで全国繁盛店になる方法」
https://amzn.to/3EfDs6W
■佐藤勝人YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC4IpsvZJ6UlNcTRHPgjellw
■佐藤勝人LINE公式会員募集中
セミナーやイベント等の最新情報が届きます
→ https://lin.ee/qZEREN1
■佐藤勝人の講演・セミナー・個別支援のお問合せ
日本販売促進研究所 担当/佐藤夏美 contact@jspl.co.jp
vol.96 父の一周忌。サトーカメラと私に大きな変化があった話
(2024.10.23)
著者プロフィール
佐藤 勝人 Katsuhito Sato
サトーカメラ代表取締役副社長/日本販売促進研究所.商業経営コンサルタント/想道美留(上海)有限公司チーフコンサルタント/作新学院大学客員教授/宇都宮メディア.アーツ専門学校特別講師/商業経営者育成「勝人塾」塾長
経 歴
栃木県宇都宮市生まれ。1988年、23歳で家業のカメラ店を地域密着型のカメラ写真専門店に業態転換し社員ゼロから兄弟でスタート。「想い出をキレイに一生残すために」という企業理念のもと、栃木県エリアに絞り込み専門分野に集中特化することで独自の経営スタイルを確立しながら自身4度目となるビジネスモデルの変革に挑戦中。栃木県民のカメラ・レンズ年間消費量を全国平均の3倍以上に押し上げ圧倒的1位を獲得(総務省調べ)。2015年キヤノン中国と業務提携しサトーカメラ宇都宮本店をモデルにしたアジア№1の上海ショールームを開設。中国のカメラ業界のコンサルティングにも携わっている。また商業経営コンサルタントとしても全国15ヶ所で経営者育成塾「勝人塾」を主宰。実務家歴39年目にして商業経営コンサルタント歴22年目と二足の草鞋を履き続ける実践的育成法で唯一無二の指導者となる。年商1000万〜1兆円企業と支援先は広がり、規模・業態・業種・業界を問わず、あらゆる企業から評価を得ている。最新刊に「地域密着店がリアル×ネットで全国繁盛店になる方法」(同文館出版)がある。Youtube公式チャンネル「サトーカメラch」「佐藤勝人」でも情報発信中。
オフィシャルサイト
オフィシャルフェイスブック
https://www.facebook.com/katsuhito.sato.3?fref=ts
サトーカメラオフィシャルサイト
YouTube公式チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCIQ9ZqkdLveVDy9I91cDSZA (サトーカメラch)
https://www.youtube.com/channel/UC4IpsvZJ6UlNcTRHPgjellw (佐藤勝人)