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たまに他の路線に浮気することはありつつも、基本はビジネスパーソンの仕事のヒントになりそうな本、明日への活力になりそうな本を紹介してきた小欄の、最終回で取り上げるのが本書だというのは、連載の集大成としての意味を感じています。
 
タイトルは『物価とは何か』。2022年現在、少しでも日本経済の現状を気にしている人なら全員が関心があるであろう「物価」をめぐって、およそこれ以上の骨太は考えにくいタイトルの書籍です。そして中身はといえば、骨太な構えから一転、滔々たる語り口で、日頃経済に馴染みの薄い読者にも最後までおもしろく読ませてくれます。「なぜ物価が大事なんだろう。物価はどうなっていればいいんだろう」と少しでも考えたことがあれば一読の価値あり。お勧めします。
 
ただし、長いです。855字×311ページ=約27万字*1。単行本を読み慣れない人にはツライ字数です。そういう人は第4章から読み始めるようお勧めします。章の冒頭で、1990年代初め、著者が「日銀の下っ端のスタッフとして」バブルの後始末の情報収集と分析を行っていたときに「なぜ物価は動かなかった?」と一人で疑問を持ったことが本書の始まりだったことが書かれています。著者の個人史から入るのは、「読むのしんどそう」「難しそう」と感じた本を読むときの、テッパンのコツのひとつです。
 
ここで「物価が動かなかった」というのは次のようなことです。
 
「一九八〇年代後半のバブル真っ盛りのころは景気も超過熱していたので、物価が上がるのが当然なのに、実際はそうならなかったのです。私はそれが不思議でなりませんでした。消費者物価指数(CPI)で測ったインフレ率の動きは極めて緩慢で、株価がピークをつけた一九八九年一二月でもインフレ率は二・九%にすぎませんでした。‥略‥あり得ないくらい低い水準です。」(第4章 なぜデフレから抜け出せないのか――動かぬ物価の謎―― p210))
 
ここでの疑問は「なぜ上がらなかった?」ですが、同じ疑問が逆向きにも生じます。「なぜ下がらなかった?」です。
 
「下がるべきときもそうでした。バブルがはじけ景気が悪化し、‥略‥企業の生産も一九九二年春には前年を一割下まわるという危機的な状況になりました。しかし、その時点でのインフレ率は二・五%程度であり、それまでより若干低くなったとは言っても、物価安定が損なわれていると問題視される水準ではありませんでした。」(同上)
 
景気と物価は違います。景気は景気動向指数で表されることはあってもあくまで気分です。いっぽう物価は、実際の物の値段です。――とざっくりした説明で先に進むことを許してくれないのが本書です。許さない代わりに、きちんとした経済学的な定義を教えてくれます。それによれば、物価とは「昨日と同じ効用を得ようとしたときに必要となる最小限の支出」のことです。
 
もうこの一言で、物価は動くのが本来の姿であることがわかります。「昨日」と言った時点で今日までの時間、つまりダイナミズムが想定されるからです。「効用」とは財やサービス(商品)を享受した際の生理的快や心理的満足を指しますが、「超精密満足度センサー」みたいなデバイスがあったとして、商品から得る快や満足が昨日と今日でまったく同じという人はいないはず。であれば、10銭でも20銭でも商品の値段は変えていいのであって、例えば昨日の2割増しの満足を昨日と同じ値段で買わせてくれる店主には感謝しかありません。
 
でも、現実はそうならない。ならない原因は何か。それらはどんな要素で構成されているか。それらの要素はどう作用しあって「まったくそうならない」だったり「少ししかそうならない」だったり「びっくりするぐらいそうなった」という結果を生じるか。それらを定量的定性的に分析し仮説を導き出す手法にはどんなものがあるか。仮説をどうやって検証するか。そのための方法論は? それはいつ編み出された? 流行りすたりは? それらはどんな時代背景に左右された? そして最後に、そこからどんな教訓が、今日と未来のために、引き出せる――? 
 
これらを全部書ききっているのが本書です。いやぁ、勉強になります。
 
小欄の読者には中小企業経営者や社員の方々が多かったと思います。皆さんが特に知りたいのは、物価が動かないと具体的にどんな経営上の問題が生じてくるかでしょう。
 
そして皆さんは、すでにその渦中にある実感に照らして、「値上げができないことに決まってるじゃないか!」とおっしゃると思います。経済学からすれば、値上げすればいいのです。価格は需要と供給のバランスなのだから、機械的に決まってくる両者の交点の数字に明日から値札を書き換えればいい。
 
――でも、やっぱりできない。本書282ページには、「していいはずなのにできない」悲哀を呑んでステルス値上げのための商品開発を深夜まで続ける小規模食品メーカーが描かれます。「うちと同じだ!」と思う方々は268ページから301ページは必読です。誰の失敗でどこがどうなって今の状況が生まれたか。こうじゃないかなぁ、と漠然と思っておられることが経済学的に検証してもその通りだったと知れば、「もうこの轍から出なければ。この施策は変えさせねば」という確信が得られると思います。
 
それにつけてもやはり悔やまれるのは政府と日銀の失敗です。本書にも、政府が、あるいは日銀がこのときこうしていれば・・・という分析が、後講釈になってしまうことを憚りつつもポイントごとに出てきます。
 
例えば34ページには、2013年以降、政府と日銀はインフレに苦しむブラジルと同じ物価政策の失敗を犯している、今も犯し続けているという指摘が、アメリカのノーベル賞経済学者クリストファー・シムズの見立てを借りてほのめかされます。これなど、vol.77vol.84で財務省の緊縮財政路線・財政均衡至上主義を批判する書籍を取り上げてきた評者としては、財務省も同罪だと思ってしまいます。vol.88で大蔵省時代の失敗も知ったからにはなおさらです。
 
とはいえ大事なのはこれからです。著者も、日銀や政府のポリシーメーカーたちが悪手と知りながら時々の物価施策を講じたとは言いません。我々市民としては、一貫して理性的な本書の語り口に怒りの矛先を収めつつ、物価から始まって経済全体を上向かせる実践を各々の立場から始めたいところ。それも経営者も消費者も一斉に、です。なぜって、本書が暗に示すデフレの原因の究極は「時間」の不整合。つまりはタイムラグですからね。
 
 
 
*1 45字×19行×(326-11-扉頁見開きぶん8+まえがき4ページ)=265905
 (連載了)
 
(ライター 筒井秀礼)
『物価とは何か』
著者 渡辺努
株式会社講談社
2022年1月11日 第1刷発行
ISBN 9784065267141
価格 本体1950円
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(2022.3.9)
 
 
 

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