書かれてある内容はひたすら興味深く、わかるところは「へえぇ!」とか「マジで!?」とか、「そうだよなぁ、そうなんだろうなぁ」とか思いながら読めます。知らない事柄が出てくる箇所はカッコ書きの注釈も頼りにひたすら勉強させてもらいながら読めます。情報が膨大に詰まった本なのです。
じゃあしかし、「この本はこういうことをしたい本です」と一般の読者に響くよう説明できるかといえば、できない。本のほうはもちろん自己紹介をしていて、カバー表中段にこうあります。
「様々なナラティブのなかで、本書がターゲットにするのが「歴史の教訓」である。ナラティブが制度変更や経済成長に影響を与えるプロセスを確認しつつ、金融システムをめぐる制度変更や政策において歴史の教訓と称するナラティブが影響したなりゆきを説明する。」
でも、これだといわゆる近現代史クラスタの人たち以外響かないでしょう。かといってナラティブという現象を心理学的に掘り下げる本でもない。だからどうしようかな、と思いながら読んできて、最後の最後、〆のツーセンテンスでやっと手がかりを見つけました。293ページにこうあります。
「ナラティブは経済を左右する。本書が見てきたのは、ナラティブの物語の断片としての「日本金融百年史」である。」
見つけたのは「ナラティブは経済を左右する」のほうです。これは「ナラティブ」という言葉を何となくでも知っている人なら誰でも理解し、使えるフレーズです。
でも、だからこそ怖い。「そうだよね、ナラティブは経済を左右するよね」「そうそう、ナラティブは**を変えちゃうからね」。――「**」には何でも入れられます。直近の一般の関心事でいえば「政局を左右するよね」だったでしょうか。総裁選には投票できませんが、ナラティブは投票行動も左右します。そして「だから気を付けないとね~」で〆。大抵そこで終わりです。散々いろいろな風説をまき散らしておいて。
それに対し、本書は「ナラティブは経済を左右する」という一言の内実を、延々約290ページかけて綴ります。つまり本書は、評者を含む一般の人たち一人ひとりが「私たちのナラティブが国の経済も左右するんだ・・・」と意識したときに、直近百年の日本の金融システムと経済の歴史に関し正しい知識を共有し、できるだけ正しいナラティブを発したり、浴したりできるよう、学術的に検証された事実を教えようとしてくれている本です。
では、そもナラティブとは何か。著者はこう記します。
「ナラティブは、人々の間でシェアされる何らかのビジョン、噂、あるいはスローガンのことである。/筆者がこの原稿を進めつつあるさなか、NHK大河ドラマ『晴天を衝け』が放映されている。このドラマのセリフのなかで攘夷思想を「流行り病」と表現する箇所がしばしば登場する。‥略‥こうした「流行り病のように蔓延する話題」こそナラティブである。」
(はじめに p8)
ナラティブが経済を左右した例のうち、現在も続くのが「失われた10年」とも「失われた30年」とも言われる経済停滞です。1991年に株価が、92年に地価が暴落してバブルが崩壊したとき、銀行は不良債権の処理を先送りし、業績が悪い企業にも追い貸し(追加融資)を重ねました。それにより国民の金融不安が慢性化。景気がどんどん冷え込んでいきました。しかし大蔵省は政策的対応(公的資金の投入)に踏み切らず、銀行に自助を求め続け、かえって実体経済へのダメージを長引かせます。結果、経済停滞を無限軌道に乗せてしまい現在に至ります。
著者はこのときの国の対応について、「大蔵省銀行局長であった寺村信行が、昭和初期の金融恐慌を参考材料にしていたことが突き止められている」と学術報告を紹介し、局長が「歴史の教訓」として当時の政策対応に倣った際にミスリーディング(misleading)があったと指摘します。そのミスリードとは「銀行の経営破綻が明らかでない時点での公的資金投入が国民の不満を招く」と捉えていたこと。
本書は全体に事実の叙述が大半を占め、著者の主張が強くは打ち出されないのですが――一般の人が読んでいてつらくなる理由の一つはこれでしょう――、ここは著者の主張が強く出た数少ない箇所です。下記引用。
「歴史の教訓を引き合いに出して分かりやすさを強調することは一面で誠意ある態度ではある。ただし、歴史の教訓を引き合いに出す姿勢もまた、誠実である反面で慎重さも求められる。なぜなら歴史の教訓と称されるものは、事実関係の発見とともにアップグレードが要請されてくるからである。」
この後に次の文章が続きます。
「なお、高橋是清や井上準之助が国民の説得に奔走したことが詳細な分析を通じて裏付けられたのは、一九九〇年代が過ぎてからのことである(永廣2000)。」
(第六章 自由化とバブル p249)
高橋是清と井上準之助は昭和金融恐慌時の大蔵大臣です。両者が国民の説得に奔走したこと――それもあってわずか1年で金融不安は沈静化したこと――がもし1991、92年の段階で歴史認識になっていれば、公的資金投入は遅れずにすんだかもしれず、「失われた30年」になることもなかったかもしれない、と主張しているのです。
これが帯のコピーの言わんとすることだと思います。「歴史に学ぶことはなぜ難しいのか?」――答えは歴史認識が変わるからです。これはある意味人間の普遍的限界ともいえる不可避の事態です。そしてその歴史の不可避性を乗り越える希望となり力になるものもまた「歴史(への認識)」に他ならないという、歴史研究=歴史学の本質が、ここに表れているのだと思います。
一般の人は目次を一瞥して「終章 百年の歴史からみえてきたもの」から読むことも多いでしょう。たぶん担当編集者がこの構成に工夫したのだと思いますが、終章で著者は本書の流れを、大正・昭和初期の(一)と昭和戦後・平成・令和の(二)に分けて、あらためて総括してくれます。どのトピックにどんなナラティブがあったか。それが社会にどんな影響を及ぼしたか。それに対し国や政府、産業界がどう対応してきたか。終章を読むだけでも知識としての学びは得られます。
でも、やっぱり全部読むべきです。延々18万3040字費やして初めて*1、「歴史ってやつは本当に・・・」と何かしら感じ入るものが出てくるからです。この本の本質はそっちにある。だから「費やす」は読者が費やすのでもあります。しんどいです(笑)。しんどいから、例えば79ページの、大正11年の小学6年生用算数の教科書の計算問題や、次ページの明治10年代から20年代の小学校上級生向けの演習問題をやってみて、気分転換を挟みながら読むようお勧めします。「日本は本来こんな高度な金融教育を施す国だったのか!」とビックリしますよ。
*1 40字×16行×(292-目次ぶん6ページ)=18万3040字