それと同じ効能が本書にもあるかどうかはわかりません。そこまでの情報量はたぶんないからです。でも、学術的な議論は脇において、心証レベルででも基礎的な理解を育てておくうえでは、ものすごくいい一冊ではないでしょうか。
著者のグルチャラン・ダス氏は1943年生まれ。巻末プロフィールによるとハーバード大学を卒業してハーバード・ビジネス・スクールでも学んだ著述家・経営コンサルタントで、P&GインディアCEO、さらにP&G本社では経営幹部(戦略企画担当)を務めた人物のよう。「ウォールストリートジャーナル」や「フィナンシャル・タイムズ」に随時寄稿する世界知識人の一人ということで、Google検索で確かめた限りでは2007年3月21日発行の「ニューズウィーク」日本版の記事が、日本で最初に読まれたダス氏の言説ではないでしょうか。
本書はダス氏自身の経歴を一部本書の縦軸とし、近代から現代にいたるインド国家成立の歴史と社会経済の興隆をそれに重ねて解説しつつ――なにせイギリスから独立してインドとパキスタンになったのが1947年ですから――、インドの産業、資源、行政など社会システムのあり方、「ビリヤニ社会」と呼ばれる多民族国家としてのあり方の中身まで、さまざまなトピックを展開します。
「現代インドでは身分制としてのカーストよりも地域別、移民集団別、職業別のコミュニティであるジャーティのほうが意味を為す」といった重要な指摘も、合間合間に挿入されます。独立時以来の「混合経済」――ソ連や中国ほど極端ではない社会主義的経済――をやめて1991年に自由主義経済に舵を切ったのは日本でいう明治維新なみの大変化だった、という解説も、通史的にインドを見たことがない大部分の日本人を大いに啓蒙すると思います。
B-plusの読者にはインド進出を考えている経営者の皆さんも多いでしょうから、インドの国力、産業資源、市場ポテンシャル等々を、本書が示す数値で列挙してみます。
・人口 13億5000万人(国連は2027年頃に中国を抜いて世界一位になると予測)
・労働人口 5億2000万人(中国の8億人に次いで世界二位)
・経済成長率 6.8%(2018年)
・名目GDP 約3兆ドル(世界7位)
・購買力平価 10兆5000億ドル(世界三位。一位中国、二位アメリカ)
・中間層年収 70~80万円(日本の物価に直すと280万円)
・平均年齢 28歳
・識字率 71%(公用語のヒンディー語)
・英語人口 全体の12%
・常備軍の人数 世界二位
・穀物生産量 ジュート・豆類‥世界一位、米・小麦‥世界二位
・天然資源 鉄鉱石‥世界4位、石炭埋蔵量‥5位、天然ガス埋蔵量‥23位、石油埋蔵量‥24位(国内エネルギー消費の18%を自給)
・携帯電話利用率 人口の79%(普及台数10億台以上)
・農家一戸あたり農地面積 平均2.5ヘクタール
・GDPに占める個人消費の割合 59%(欧州と日本‥56%、中国39%)
国連の定義による「絶対的貧困」層の人口が最低でも2億人はいるというネガティブなデータもあるいっぽうで、なるほどこれらの数値を見ると、第6章で著者が書く疑問――「なぜ、自動車会社以外の日本企業はタイ、ベトナム、ミャンマーへ進出するのでしょうか」(p146)――ももっともだと思わせられます。ASEAN加盟10ヶ国の人口は合計6億5000万人。対してインドは今後一世代の間に7億人近い人口が中間層になると予測されているそうで、市場ポテンシャルの点で比較になりません。
このあたり、「日本人は日本人がいるところに進出する」(p146)、「タイのバンコクならば赴任してもいいけれど、インドのコルコタへ行くことは嫌」(同)、「日本人ビジネスマンはつねに日本に帰ることを考えている」(p185)といった、日本のビジネスマンの中途半端さを嘆く著者の言葉が耳に刺さります。「だってそりゃそうじゃないの?」と言いたくなりますが、もしかしたらこの自明さこそを、一度自明でないところにまで押し下げて、吟味=相対化しないといけないのかも。でないと、「移民」ということを自分のこととしても相手のこととしても当たり前に受け入れてきたインド人の心性は永遠に理解できないでしょう。
巻頭解説を寄せたスズキの鈴木修会長はナレンドラ・モディ現首相と会うたびに、「ミスター・スズキ、あなたはいつ引っ越してくるのか?」と言われるそうです。これはスズキが経済改革前の1983年からすでにインドに進出していたからですが、これを久しぶりの再会の挨拶ととるか、本気で聞いている一言ととるか。評者としては、読者の皆さんは自分がそう聞かれたつもりで、一度は後者でとってみるぐらいの気持ちで、本書を読まれるようお勧めします。