・「はじめに」
・第Ⅰ部第2章第二節あたりまで
・第Ⅲ部末のミニコラム「ノート2 私の個人的な経験」
の3つを読めば、エッセンスはつかめると思います。目次的な構成はともかくメタレベルの構成としてはこの3つが幹であり根であり、大部分のその他は枝葉です。核の部分だけ読みたい人、とにかく時間がないから極力短く済ませたい人は、この3つを押さえればたぶん大丈夫。求めるものは得られます。
あえてこんな紹介の仕方をするのは、もしかしたら本書は狙った意図に反して――むしろテーマからすると必然的に? ――機会損失をなくすための本にはなっていないからです。ましてや「機会損失回避法」を説くノウハウ本ではない。評者的に一番しっくりくる言い方をすれば、「機会損失をテーマとして書かれた上質のエッセイ」です。エッセイといって言葉が軽ければ「思索の書」としてもいい。そうであればこそ、一つひとつの文章が緑も濃くつやつやとして、大地への根の張り方や幹、枝の伸び具合も含めて樹容全体で味わう一冊になっているのだと思います。
ノウハウは背景も一緒に理解しないとその場のハウツーで終わりますし、そもそも機会損失の問題は最終的にはその人の価値観や哲学の範疇です。このことを著者は、そう言って済ますのではなく、「現在の資源のトレードオフ」「時間軸のトレードオフ」という2つのトレードオフへの繊細な思索を通じてわからせてくれます。前者は「AをやるならBはやれない」という問題。後者は「いつやるか、どこまでやるか」の問題です。
つまり機会損失について考えることは――優先順位の付け方や発生確率をめぐる議論はありうるとしても――、どこまでも“ if ”に終始せざるを得ない。であるならば、「機会損失をなくすための本」にするより、「機会損失を最小化するとはどういうことかについて考えられるようになる本」になったほうが誠実です。その意味で本書はテーマに誠実に迫った良書です。
では「枝葉」と表現した本書の大部分は何かといえば、評者の理解では「現在の資源のトレードオフ」と「時間軸のトレードオフ」のバリエーションです。この2つが綯交ぜになって霧に包まれたり、たまに明るく見通せたり、時にトレードオフの関係を飛び越えて思いがけない運が舞い込んだりして進むのが“現実”であるわけで、そう思って読むと、第Ⅲ部末のミニコラム「私の個人的な経験」には、他の幹2つも含めて本書の全内容が集約されているように感じます。具体的な内容は読者のお楽しみとして、「だから日経新聞の『私の履歴書』はおもしろいんだな」とだけ言っておきましょう。
また、「大部分はバリエーション」などと評すと悪い意味にとられそうですが、本書では必ずしもそうではありません。綯交ぜの“現実”をこれだけ微細に言語化し、しかもわかりやすく示すのは、膨大な知識の裏付けがないとできないはず。実際に本書には、著者の専門である経営学の論文をはじめさまざまな資料から、印象的な説や実験、エピソードの類がたくさん出てきます。それらを散りばめつつ朗々たる語りは続き、読者はエッセイの感覚でどんどんページをめくっていき、時々ハッとする一節に出合う。これが本書の正しい読み方だと思います。以下いくつか、ハッとする例を引用。
「特に組織の中でも優秀だといわれている企画部門の秀才を何カ月も「計画作り」という名の、実は政治的な社内調整に没頭させる価値が本当にあるのでしょうか。」(第Ⅱ部‣意思決定プロセスにかかわる機会損失 第2章‣計画と機会損失 p28)
「データ分析とは「過去」と「測れるもの」という二重の制約があるのです。データ分析だけで(差別化をめざした)意思決定をしようとするのは、バックミラーだけを見て車を運転しようとするようなものです。」(同第3章‣データ分析と機会損失 p68)
「選択については優先順位が重要なのは間違いない。‥略‥優先順位づけというのは番号をつけることではない。順位をつけたら、三番目以降はすべて忘れることだ。」(ベストセラー『選択の科学』の著者である盲目のシーナ・アイエンガー教授が、著者の教える慶応技術大学大学院ビジネススクールで話したこと。第Ⅳ部‣機会損失を最小化するために 第10章‣機会損失にどう取り組むか[1] p251)
次の2つは結構厳しい指摘も多い証拠として紹介。少し長くなりますが引用します。
「「ダイバーシティは明らかにイノベーションに対してプラスである」と主張するのが、マッキンゼーやBCG(評者注:ボストンコンサルティンググループ)といったコンサルティング会社です。両社とも‥略‥データで示し‥略‥こうしたレポートが根本的に間違っているとは思いません。しかし、ミスリーディングであるのは確かです。‥略‥マッキンゼーのレポートでは、ご丁寧にも‥略‥微妙な言い回しで自社の主張の正当化を図っています。」(第Ⅲ部‣後悔と機会損失 第8章‣「適材適所」と機会損失 p200、201)
「野村克也氏をはじめ、有名人の座右の銘として、「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」といったフレーズをときどき耳にします。これを踏まえてか、同じように「企業変革はまず社員の考え方を変えることだ」とおっしゃる方がいます。こうした言葉自体を否定するものではありませんが、現実には、これはほぼ嘘ではないかと思います。社員の考え方が変われば、組織変革はほぼ終わったも同じであり、それをどう実現するかこそが組織変革の要諦にほかならないからです。そして、「まず考え方」というのは、人の心や考え方を変えるということが、どれほど難しいかという点を全く理解していない絵空事であるとしか思えません。」(第Ⅳ部‣機会損失を最小化するために 第12章‣機会損失にどう取り組むか[3] p279)
マッキンゼーをこき下ろすのも、世間で人気の座右の銘を「ほぼ嘘」と断じるのも、学究者としての自信があってこそでしょう。エッセイの筆致でありながら骨太の思索の書。お勧めです。