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かつて“天才”と呼ばれた日本人ライダー・宮城光氏が語るオートバイレースの世界。不運としか言いようのないアクシデントで棒に振ることになってしまった1994年シーズン末、これからもレースを続けていくために、ひとつの決断をする──。
 
 
 「あんたのは、イカサママシンでしょう。いまにバレるから見ていなさい」――それまではライバルではあっても、対立関係にもなかった某ワークスチームのマネージャーからの言葉。
 
 「なんてひどい走りだ。お前は乱暴すぎる。だいたい、どうして日本人のお前がアメリカでレースをしているんだ!」――普段は気のいいライダーであるはずのマイケル・バーンズからの抗議。
 
 まったくの不運としか言いようのない事故でシーズンを棒に振った1994年から1年。1995年シーズンの私に向けられる風当たりの強さは、日に日に強くなっていくばかりだった。
 アメリカのレース界は、「勝負権」のあるライダーに対しての風当たりが徹底的に強い。だからこそ、ライバルたちの反応には腹を立てつつも満足していたが、シーズン開幕前は誰も・・・当の私でさえ、こんな展開は予想しなかった。
 なにしろ、ライバルたちが躍起になってマークする私たちのチーム「アクション・スピード」は、開幕までは文字通り影も形も無かったのだから。 
 
 

「人」だけを頼りに

 
 こんなことを言うとおかしいと思われるかもしれないが、エリオン・レーシングとの契約を解除された1994年のシーズンオフ、どうして「自分のチームを作ろう」と決めたのか、正直なところよく覚えていない。少なくとも、「考え抜いて」出した答えではなかったとは思う。
 強いて言うならば、サスペンションメーカーのショーワのエンジニアであり、アメリカのレース界にも精通した三島さんが話した一言がきっかけだったかもしれない。
 
 「それなら、一緒にチームを作ろうか」
 
 レースは生もの、とよく言われる。速ければ必ず勝てるというわけではないし、アクシデントひとつで何もかも失ってしまうこともある。それでも、全てを自分の責任の下に行っているのならば、まだ納得もできよう。もう、何か自分のあずかり知らぬ「大いなる何か」に翻弄されるのではなく、自らの足でアメリカのレース界に立つ。それ以外に、私がレースを続けるための道は無かったようにも思うが、それは会社を興すのと何ら変わらない。しかもここ、アメリカで・・・。
 

 バイクを走らせるのは私がするからよいとして、その私が乗るためのバイクはどこからか調達して来なくてはならないし、走ればガソリンもタイヤも減る。レースをするとなれば「乗りっぱなし」というわけには当然行かないから、整備をする場所も人間も必要だ。転戦するための手段は?

 「人」「モノ」「金」がビジネスの基本とされるが、私には「モノ」も「金」も無かった。私は「自らの足でアメリカのレース界に立つ」というチャレンジに共感してくれる「人」を頼りに、三島さんとともに手探りで歩き始めた。
 
 

チャレンジを応援してくれた人たち

 
 私たちのチームをスポンサードしてくれたのは、大阪の飲料メーカー、サンガリアの現地法人社長であり、元・レーシングライダーでもある石山さんだった。
 当時のアメリカで「缶に入ったもの」と言えばコーラかジュースの類ばかりだったように思うが、サンガリアは世界で初めて缶入りのお茶を開発したパイオニアとして、アジアンマーケットを中心にシェア拡大を狙っていた。
 
 私が日本人コミュニティ向けの冊子に連載を持っていたことから、サンガリアのメインターゲットに対して認知拡大を図ることができるというメリットがあったこと。そして何より、「自らのチームを立ち上げる」というチャレンジに、レーシングライダーとして石山さんが共感をしてくれたこと。これによって、すぐさまの支援を約束してくれたのである。
 
 ありがたいことに、昨シーズン、まがりなりにも最終戦までトップチームでレースを戦い切ったことを評価してくれたアメリカホンダからはCBR600を2台、アメリカでの挑戦を知った古巣のモリワキ・レーシングからはレース仕様のCBR900RRを供給してもらえることも決まった。
 これで昨シーズン同様、アンリミテッド・チーム・チャレンジと、スーパースポーツ600クラス(さらに、ひとつ上のクラスであるスーパーバイク750クラスにも)にエントリーすることが可能になった。
 次の課題は、これをどうやってメンテナンスしていくか、ということだ。
 
 

プロのメカニックになりませんか

 
 「AMAのプロメカニックになりませんか」。
 そんな言葉をキャッチコピーに、私と三島さんはウィロースプリングス・レースウェイのパドックへ繰り出した。ここは、カリフォルニア中のアマチュアレーサー、そして彼らをサポートするサンデーメカニックたちで、週末となれば大賑わいだったからだ。
 ただし、有り体に言って私たちにはメカニックの生活を1年間保証できるだけの資金力はなかった。だから、この「キャッチコピー」には続きがあった。
 「AMA プロレーシングを転戦するという経験を積み、プロのメカニックとしてのキャリアのスタートラインに立ちませんか」。
 
 こんなオファーに手を挙げてくれたのは、モーターサイクルのビジネスを手がけるかたわら、週末にはメカニックとして腕を振るうメキシコ出身のポンチョ・ランゲルをはじめ、何人かの若者たち。私と三島さんは、そんな彼らに「金」以外で報いるべく、一計を案じた。
 
 いわゆる「顎・足・枕」を、トップチーム・・・いや、それ以上の水準として、「プロのメカニック」としてのプライドを満たすことにしたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

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