プロフィール 1951年、埼玉県川越市生まれ。日本大学卒。1974年、積水ハウスに入社。1978年に退社し、義兄・田渕道行とともに弁当のフランチャイズチェーン・ほっかほっか亭を創業する。4年で目標以上となる1000店舗を達成し、一ベンチャー企業から国内有数のフランチャイズ企業に育て上げた。1992年12月、フレッシュネスバーガー1号店(渋谷区富ヶ谷)を独力で立ち上げ、1994年にほっかほっか亭を退社。以後はフレッシュネスバーガーの事業に専念し、1995年よりフランチャイズ展開を開始した。辣腕経営者としての側面が取り立たされることが多いが、小学生の頃にバンド活動、中学時代は水泳、高校時代にラグビー、大学在学時にはボブスレーの選手として活躍するなど、趣味やスポーツの分野でも輝かしい経歴の持ち主である。主な著書は『面白いことをとことんやれば、「起業」は必ずうまくいく。フレッシュネスバーガー社長の現場的発想法』(アスペクト)。
――フレッシュネスバーガーの創設者・栗原幹雄氏。現在のファストフードビジネスのシーンを語る上で、欠かすことのできない人物のひとりだ。氏のポリシーは「200店舗出したらやめる」というものだった。それは、お弁当チェーン「ほっかほっか亭」の創業に関わったときから変わらない信念だという。しかし、ほっかほっか亭もフレッシュネスバーガーも、到底国内200店舗では終わろうはずがない勢いで勢力図を拡大してきた。第三者から見ると、ポリシーと現実のギャップがあるように見える。だが実は、栗原氏の信念は一切ブレていない。今まで多く語られることのなかった栗原氏の青春時代にも迫りながら、その経営哲学を聞いた。
おませな少年だったゆえに興味が目移り?
私は1951年生まれで、安保闘争華やかなりし60~70年代がちょうど青春時代まっさかり。実家は楽器屋で、生徒が6000人ぐらいいた音楽教室もやっていましてね。華やかな環境で育ったせいか、ちょっとおませな少年だったことは確かです(笑)。 中学、高校のときはフェンダーのギターなんかぶら下げちゃってね。12歳から13歳のころかな、東京オリンピックが開催され、2年後にはビートルズの初来日公演があって、日本武道館にも行きましたよ。でも自分の中では「ビートルズは終わりかけていた」と思っていました。実家の環境のせいで、小学生のかなり早い時期からビートルズを聞いていたので、日本にブームが来たころには興味が次の音楽に移っていたんです。
医者の息子がグローブを持って羨ましがられていた時代に、私はエレキギター。一部からは不良のような目で見られていたかもしれませんね(笑)。 ギターだけでなく、グレイシーのドラムなんかもありましたから、中学校時代からもうバンドを組んでいて、ビートルズが流行ったときにはリズム・アンド・ブルースをやっていました。なんて小生意気な中学生だったことか(笑)。
――少年時代から自分なりの思考や価値観を培ってきた栗原氏。13歳で音楽の道に区切りを付けてからは、中学は水泳、高校はラグビー、大学ではボブスレーと、やりたいことにダイレクトに熱中してきた。大学2年時には学生選手権で3位入賞を果たしオリンピックのボブスレー日本代表に推されるも、オリンピック協議会との考え方の相違がもととなって自主的に辞退。硬派で活発な学生時代を送った。
硬派なんて言われるとくすぐったいな(笑)。 アルバイトをしながら遊んでばかりの、普通の学生でしたよ。そんな私も昭和49年に積水ハウスに就職して、一部上場企業の社員になったんです。でも、社会人の常識についても建設業についても何も知らなかったから、「家はどうやって水平に建てるんですか?」「そもそも水平かどうかなんて、どうやってわかるものなんですか?」なんて初歩的な質問ばかり。「お前、何を勉強してきたんだ?」と言われて、5円玉と糸を渡されて「水平について考えろ」と(笑)。 そんな “超” のつく初心者だったわけです。しかも、出勤初日から遅刻して。当時は社員寮に入っていたんですが、お昼の12時になって初めて気がついた。「誰も起こしてくれないなんて!」と思いましたけど、もちろん寝坊した自分が悪い。あわてて会社に駆けつけましたが、後の祭りです。それがきっかけで、図面なんか書かせてもらえず、各種の確認申請書類を役所に提出する仕事ばかり回されてしまったんです。
この仕事は誰もやりたがらない仕事でした。地味ですからね。“天下の積水” に入って、どうして役所まわりなんかしなくちゃいけないんだ?と考えるのが普通でした。だけど、私からしてみれば、これは非常に面白い仕事でしてね。毎日役所に行って職員の方と知り合いになっていると、役所の人たちも人間ですから「栗原の書類は早く回してやろう」ということになるわけです。建築指示の書類というのは早く許可が下りないと営業の歩合に関わるので、あまり悠長にはできないものなんですね。だけど私が行ったら早いもんですから、営業部員の絶大な支持を得て、なんだか専門官のようになってきた(笑)。
だけど、私には積水ハウスでひとつの目標がありました。だから役所周りの実績を持って上長と談判して、現場監督にしてもらえるように頼みこみました。
―― 一部上場企業のすべてに精通したい・・・・・・。それが栗原氏の考えていた目標だった。ひとつのセクションだけでなく、すべてのセクションを回り、取得できる技術や知識はすべて取得する。それはその会社で上り詰めようという考えに発した行動ではなく、自分の将来のために必要なことだったからだと、栗原氏は当時を振り返る。「将来のために必要なこと」、つまり、やがてやってくるであろう起業のチャンスへ向けての準備だった。