生まれついての悪ガキで変わり者
おれは生まれついての悪ガキでね(笑)。勉強もせずに父親に楯突くことばかりしてきた。親父も、人と同じものを作るのは気に入らない根っからの職人だった。そんな親父の気性を受け継いだせいか、おれも子供の頃から 「変わり者」 と呼ばれていたんだよ。
「岡野のところのアイツ、変わってるねえー」
近所の人は寄ると触るとそんな調子で噂をしてたし、学校でも頭のできる子は、おれを 「変人」 と呼んでたな。おれはおれで、「フツーになんかなりたくない。人と変わってなきゃダメだ」 と思ってたんだから、手に負えないよね(笑)。
日本人は、物まねはピカイチだけど独創性はいまひとつだと言われてるでしょう。そんなのは大嘘だよ。誰も考えたことがない独創的な発想をする人は、ちゃんといるんだ。でもそいつは、世間から見れば間違いなく変わり者だ。枠にはまらず、時代の常識を突き抜ける発想をしてるから、世間は 「あいつは変わってる」 と言う。でも、それは決して恥ずかしいことじゃないと思うよ。
おれは農耕社会の狩猟民族だ
それで言うと、おれは、農耕社会に生まれた狩猟民族なんだな。日本人は農耕民族で自然が相手だから、種まきにしても刈り取りにしても、周りと同じ考えや行動をとるように要求される。「変わり者」 は許されない。でも狩猟民族は、皆と同じことをしていたんじゃおまんまの食い上げだ。人の後を行っても獲物はとられちゃってるし、人と違う狩り場を自分で開拓しなきゃしようがない。人と違うことをしないと生き残れないんだよ。おれは狩猟民族だから、いつも人と違うことをして、「あいつは変わってる、変人だ」 と言われ続けてきた。おれがいくら 「変わってなきゃやっていけないんだ」 と言っても、わかってもらえなかった。メディアに取り上げられるようになって、やっと時代が追いついてきた感じかな。
学歴なしのハンディを逆転のバネにした
前回も言ったけど、おれは国民学校の初等科を昭和20年に卒業したんだ。勉強はからっきしだったから、試験なしで進める国民学校の高等科へ入った。入学してすぐ終戦になって、学校へ行っても、毎日焼け跡の片付けと先生たちのデモクラシーの話ばかり。すっかり嫌になって、1年もたたずに中退しちゃったよ。
学歴があれば 「サラリーマンでもやるか」 となってたかもしれないけど、中学中退でしょう。お袋からはいつも「何か人のできないことを身につけろ。男は何か身につけなければゴミと同じだ」 と言われていたし、それで親父の下で、金型技術の修業を始めたんだ。
金型の職人は一人前になるのに20年かかると言われていたんだが、おれは 「高卒、大卒なんかには負けねぇぞ! いまに見てろ」 と思ってやってきたからね。意外に早く一人前と認めてもらえた。中途半端に学校なんか出てたら、どうなってたかなあ(笑)。
そりゃ、誰だって、コンプレックスやハンディがないに越したことはないよ。でも実際は、それがバネになるケースが多いんだよな。おれはスタートからハンディがあったから、「みんなと同じじゃダメだ」 とずっと思ってやってきた。「変わりもんで悪いか!コノヤロウ」 って調子だから、ハンディを力に変えられた。ハンディやコンプレックスは心の持ちようで、逆転のバネにも、転落の落とし穴にもなると思う。おれだって、お袋が言ったように手に職をつけてなければ、箸にも棒にもひっかかってなかったよ。
「金型屋がプレスもやったっていいじゃないか」
修業を始めてからは、誰よりも真剣に仕事に取り組んだね。でも、真面目な人間に見られるのは嫌だった。いや、根っこは真面目なんだけど、真面目に見られたくなかったんだ(笑)。枠からはみ出したくて、はみ出したくて、しようがなかったんだね。
親父を見ていて、親父とおんなじ仕事をやれるようになるだけじゃダメだ・・・・まずそう思ったね。親父は金型専業で、プレス屋から頼まれた金型を作って納める仕事をしていた。メーカーが 「こういう製品が作りたい」 とプレス屋に仕事を持ち込むと、プレス屋がその製品にあった金型を金型屋に発注する。プレス屋は、できあがった金型をプレス機に取り付けてじゃんじゃんプレスして儲ける。そのうえに、金型を他に売ってまた儲ける。でも金型屋は、金型を納めたらそれでおしまい。プレス屋が儲けるのを指をくわえて見ているしかない。「金型屋がどうしてプレス屋の黒衣でいなきゃいけないんだ」 と、内心ずっと悔しかった。
それに、プレス機は当時高くても数十万円だったんだが、金型工作機械は何百万円もするものもあって、設備投資に金がかかったんだよ。しかも、何百万回使おうがほとんど摩耗しない超硬合金製の金型まで登場してきた。そんな金型が普及したらどうなる? 消耗による取替え需要がなくなって、金型屋は干上がっちゃうよ。
そのときに、「金型だけやっていたんじゃ先がない。親父のやらないことをやっていかなきゃダメだ。金型屋がプレスもやったっていいじゃないか」 と思ったんだよ。
逆転の発想が岡野工業の未来を決めた
いわば逆転の発想だ。それを親父に掛け合ったら、「二足のワラジなんてとんでもねぇ、人さま(プレス屋)の仕事を盗るようなことは許さん」 ととりつくしまもなかった。親父は昔気質で頑固だったからな(笑)。
でも、おれだって考えがあって言ってることだ。「人の領分は絶対に侵さない」 と親父に約束して、工場の仕事が終わった夕方5時から朝の8時まで工場を借りて、一人でやることを許してもらった。工賃が安くて誰もやりたがらない仕事とか、技術的に難しくて誰もできない仕事をやるっていうポリシーは、この時以来のもんだ。これはいまも変わらない。
最初に受けたのは、コイルケースの四隅の側面に穴を開ける仕事だった。昭和45年頃、1個仕上げて実入りが80銭。ただ、単価のわりに手間隙がかかる仕事ばっかり引き受けてたって、利益が出ない。工程を4つ組んで4台のプレス機それぞれに職人をつけてやってたんじゃ、どうにもならない。だから工夫したんだ。一発で4つ穴が開く機械があれば、職人は一人で済むだろ? 機械がないなら作りゃいい。だから作っちまった。それで月100万個のコイルケースをコンスタントに仕上げられるようになって、単価が安いのに、月間80万円、年間1000万円も稼げる仕事になった。
この時に、人がやらない安い仕事でも工夫次第で稼ぐ方法があるってことがわかったんだ。
いまの岡野工業があるのは、おれが 「変わり者」 の姿勢を頑なに貫いてきたからなんだよ。金型とプレスをセットにする 「逆転の発想」 とか、安くて人がやらない仕事、技術的に難しくて人ができない仕事も工夫してやるとかは、おれの仕事術の基本だ。次はそのへんのことを話してみよう。
もういっぺん、作ってみようや! ~町工場最強オヤジ!岡野雅行の直言~第2回
執筆者プロフィール
岡野雅行 Masayuki Okano
岡野工業株式会社 代表社員
経 歴
岡野工業株式会社代表社員。十代初めから、実父が営んでいた岡野金型製作所で職人修業を開始。勤勉に仕事にいそしむかたわら遊び仲間も多く、仕事と遊びの双方で「向島の岡野雅行」の名を上げ始める。1972年、製作所を引き継ぐと 「岡野工業」 と社名を変更。金型だけでなくプレスも導入し、高い技術力を持って大手との取引が増え始める。インシュリン用の注射針で主流になっている「ナノパス33」をはじめ、ソニー製ウォークマンのガム型電池ケース、携帯電話のリチウムバッテリーケース、トヨタプリウスのバッテリーケースなど、世界的な躍進を遂げた製品はどれも岡野工業製作の部品が支えているとすら言われている。