はじめに
初めてマスコミの取材を受けたのは、1986年、NHKの教育テレビスペシャルの 『日本解剖 ~経済大国の源泉~』 だったかな。当時は円高不況の真っ只中でね。大企業は海外にどんどん出てっちゃうし、中小企業は必死になって生き残り策を探していた。そんな中で、“展望のある中小企業の秘密を探ろう” というのが番組の趣旨でね。岡野工業は、深絞り金型技術とプレス加工で 「社員4人で年商4億円を生み出す町工場」 っていう触れ込みだった。おれかい? おれは 「金型の魔術師」 だった。照れくさいけどな(笑)。
その円高不況も日本は見事に乗り切って、経済は絶頂期を迎えて、でも、それもバブル崩壊でおじゃんになった。そこからはパッとしないよね。未だに低空飛行だ。いま日本の製造業は、円高・新興国の追い上げ・経済協定やなんかの諸外国との連携の遅れ、国内市場の低迷といった四重苦にみまわれて、町工場も軒並み元気がないよ。
でも、頑張っているところだってあるんだよな。岡野工業は未だに従業員5人の町工場だけど、年商は6億円もあるし、大企業から開発の仕事の依頼が来る。岡野工業は他の町工場とどこが違うのか、下町の小さな町工場になんでそんなパワーがあるのか。せっかくの機会だから、皆に元気になってもらえることを話したいね。世の中が元気になるヒントが示せたら嬉しいね。
「スーパー」の条件
自分じゃそんな偉そうなこと言やぁしないんだが、世間が言うには、うちは 「スーパー」 らしい。そうだとしたら、その理由のひとつは、他ではできないものをやれる技術を持っているからだろうね。
たとえば、1枚の平らな金属を、いくつもの工程をかけて筒状にしていく 「深絞り」 って技術がある。ジッポーのライターケースだって1枚のステンレス板からできてるんだよ。1980年当時は世の中の景気が良くて楽な仕事がたくさんあったから、ステンレスを絞るなんて難しい仕事には誰も手を出さなかった。うちは、あえて誰もやらない仕事に挑戦したんだ。その技術が、後になって、携帯電話のリチウムイオン電池ケースを作るのに役立った。誰にもできない技術とノウハウを持っていれば、自分を安く売る必要もない。高いカネを払ってでも、「岡野さんのところでやってほしい」 と向こうから言ってくるよ。
いまは工場が何でもオートメーション化されて、いろんな部品がハイテク機器で量産される時代になってる。でも、そんな仕事はいずれコスト競争に巻き込まれて、コストの安い海外に流れていっちゃう。生き残るには、自分の技術でしかできないものを持つことと、安い仕事でも利益が出せるくらいにコストを下げることも大事だね。そのための画期的な工夫を編み出すことだな。そこんところが、うちが 「スーパー」 って言われるもうひとの理由だと思う。
うちは誰でも作れるものは作ってないし、特別じゃない仕事も、工夫してコストを下げて、ちゃんと利益が出るようにしてきたよ。両方があってこその 「スーパー」 じゃないかな。いつの時代でもね。
ゼロからの創造を続けるために
図面は引かない。頭の中で引く
おれの 「深絞り」 の技術は、もとは親父から教わった。親父が金型の町工場をやっていて、おれはお袋に 「男は手に職をつけなきゃ食べていけないよ」 と言われて育ったからね。おれはいまの学制でいえば中学中退だから、金型技術を身につけにゃいかんなと思ったよ。でも、手取り足取り教えてもらったんじゃない。親父の仕事を見ながら、見よう見まねで技を盗んだんだ。
始めがそうだからね、ものを作るにしても、おれはいっさい図面を引かないよ。師匠である親父だって、土間に白墨で書く程度だからな(笑)。いまはCADって便利なものがあるけど、「図面がないとできない」 なんて言う人は、発想が限られちゃうんじゃないかな。図面から外れたものは作れないし、そうなると、一般のものしか作れない。おれは頭の中に図面があるから、自分で加工してどんどん変えていくこともできる。図面に縛られるか、頭の中でゼロから発想して創造に結びつけるか、大きな違いがあると思うよ。
会社の大きさが全てじゃない。
小さいからこそのメリットもある
会社を大きくしようと思ったら、今だって300人くらいの会社にはすぐできる。でも、そんなことは考えたこともないな。確かに、会社を大きくすれば取引は大きくなるよ? でも、儲かるとなればどこも同じことをやり始めるに決まってる。いま、下請け工場がどこも値下げを強いられて悲鳴を上げてるだろ? 閉鎖に追い込まれたところだってある。あれは、儲かるものを見つけたままで、ずっとそれでやっていこうと考えてきたせいもあるよ。かわいそうな話だけどな。
小さな工場のメリットは他にもある。全部の工程が自分の目で確認できるのもそのひとつだ。目が届くから、金型からプレスまで一環でやってしまうプラントが開発できるんだ。プレス機4~5台ぶんの仕事を自動機1台でできるようにしたのなんかはその一例だね。ただ、プラントを開発しても、うちはたった5人だから、3年くらいでプラントを売り渡して、時間も労力も新しい仕事に費やしたほうがいいと思ってる。実際そうしてきた。だから、うちがいまご飯を食べているのは3~5年前に開発した仕事のおかげだし、いま開発中の仕事は、5年先、10年先のものなんだ。
仕事には 「これをやっていたら一生安泰」 なんてものはないんだから、常に先のことを考えてやっていかなきゃ。それにな、新しいことを追いかけていれば、いつもリフレッシュしていられるよ。
技術は大事、情報はもっと大事。
人との絆は大切にしなよ
どこにもできないことがやれるから、見てくれは町工場でも、うちは下請けじゃない。だから、大手メーカーと対等に付き合える。いま、大手から開発の仕事を受けると、最初に守秘義務契約を結ばされる。5年、10年先に世に出る仕事をしているから、誰にも漏らせないんだよな。たまに息がつけない気持ちになって、「王様は裸だー!」 とか 「王様の耳はロバの耳ー!」 とか叫びたい衝動に駆られることもあるよ。
裏返すと、おれのところには、将来を先取りする最先端の情報が集まるということだ。これから先の市場がどう動くかも、人より先にわかる。この世界、おれより優れた技術の職人はたくさんいたし、今でもいると思うけど、職人は情報にうといんだ。情報は大事だよ。最新の生きた情報を集めるためにも、人との付き合い、絆を大切にしていきたいね。
いまは震災のこともあるでしょう。簡単に言えることじゃないけど、ゼロからやり直すにも人の絆が大切だと思う。「できるまで何度でも作ってみる」 っていうあたりで、これから話させてもらうおれの経験や、「岡野流の発想法」 が、少しでもお役に立てば嬉しいです。
もういっぺん、作ってみようや! ~町工場最強オヤジ!岡野雅行の直言~第1回
執筆者プロフィール
岡野雅行 Masayuki Okano
岡野工業株式会社 代表社員
経 歴
岡野工業株式会社代表社員。十代初めから、実父が営んでいた岡野金型製作所で職人修業を開始。勤勉に仕事にいそしむかたわら遊び仲間も多く、仕事と遊びの双方で「向島の岡野雅行」の名を上げ始める。1972年、製作所を引き継ぐと 「岡野工業」 と社名を変更。金型だけでなくプレスも導入し、高い技術力を持って大手との取引が増え始める。インシュリン用の注射針で主流になっている「ナノパス33」をはじめ、ソニー製ウォークマンのガム型電池ケース、携帯電話のリチウムバッテリーケース、トヨタプリウスのバッテリーケースなど、世界的な躍進を遂げた製品はどれも岡野工業製作の部品が支えているとすら言われている。