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社会 伊東乾の「知の品格」 vol.10 学位の品位はどこに(8) 伊東乾の「知の品格」 作曲家・指揮者/ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

社会
 
 
改めて調べてみると意外なことに、日本の高等教育機関における「修士」号の歴史は浅いのです。
 
1953年、つまり昭和28年、進駐軍が撤退して2年目に日本の学位は現在に繋がる2-3重の構成をとるようになりました。つまり大学院における修士と博士の二段階、学部卒業の学士を含めれば三段階のステップです。
 
この時点での各々の学位の意味を、とくにグローバルな観点から考えてみたいと思うのです。
 
 

人的国際交流を念頭におかない学位システム

 
周知の通り、第二次世界大戦前の日本では大学学部卒の「学士さま」は十二分なインテリ、選良つまり社会のエリートを約束された少数層で、21世紀の現実とはおよそかけ離れたものでした。
 
1945年「ごろ」を境に、それが変化してゆくわけですが、戦前は「学士」が十分にエリート、「博士」にいたっては「末は博士か大臣か」が正味の現実で、明治以来通算して何人、と数を数えられるような、いわば人間国宝みたいな名誉称号でしかなかった。
 
この事実はもうひとつ、その威光が日本国内にのみ通用する、ローカルなものでしかなかったことを念頭に置くとき、より現実的な意味が顕かになると思うのです。
 
つまり、戦前の「学位」には「27歳とか28歳で取得するのが当たり前の、いわば開業免許みたいなもの」という現在の側面は一切ありません。 実力面で考えれば功成り名を遂げきった人が72歳とか82歳とか、何にしろ人生の最後のほうに受けるもの、いわば「文化勲章」みたいなものに近い。実際2014年現在の「文化勲章受章者」総数は、戦前の博士号保持者より遙かに数が多いはずです。
 
日本の文化勲章が、海外でいえば**賞程度の「学力」に相当、なんて風には考えませんよね? つまり比較を前提としない、ある種絶対的な価値を持つ、人生の「最終学位」として位置づけられていた。
 
こうした傾向が変化してきたのは、長年の論功行賞が評価され易い文系ではなく、自然科学の領域からでした。
 
 
湯川秀樹の学位遍歴
 
典型的な例として、湯川秀樹さんのキャリアを見てみましょう。
 
彼は1907年に京都に生まれ29年京都帝国大学理学部物理学科を卒業、ただちに玉城嘉十郎教授の副手として採用され1932年京大講師に就任します。
 
このとき湯川さんは25歳、学位は「学士さま」ですから英語でいえばミスター湯川講師ということになります。この時期、物理学は革命の季節を迎えており、ヴェルナー・ハイゼンベルクやエルヴィン・シュレーディンガーによって量子力学が建設され、1932年にハイゼンベルクが、翌33年にはシュレーディンガーとポール・エイドリアン・モーリス・ディラックがノーベル物理学賞を受ける、まさに物理学史を塗り替える激動の時代でありました。
 
1934年、27歳になっていた「ミスター湯川」は「核力」を伝達する「中間子」のモデルをたったひとりで構想します。秀才だった同級生の朝永がボーアやハイゼンベルクのもとに留学、本山修行で業を磨いたのに対し、無学位の湯川さんは極東の日本で、参考文献と紙と鉛筆、それに想像力だけで、原子核をむすびつける力の起源を考察しました。
 
翌35年にこれを論文に纏めますが、後にノーベル物理学賞を受賞するこの業績が27、8歳、無学位の大学講師の立場で書かれていることに注意しておきましょう。
 
翌36年、湯川さんは大阪帝国大学理学部助教授に就任しますが、このときも無学位、理系ながら29歳のミスター・プロフェッサー・湯川の誕生で、ポストドクトリアルの若者が職にあぶれている今日の状況と全く異なる世相がしのばれます。
 
翌1937年には、アインシュタインやプランク、ボーアなど、世界のそうそうたる物理学者がつどう「ソルヴェー会議」に30歳の湯川さんは招かれますが、このときもミスター・ユカワ、翌38年、31歳にして大阪大学から彼が博士号を取得したのは、ひとつはこうした国際的な業績評価の広がり、もうひとつは阪大ができたばかりで、極めて若い大学であったことなどが背景にあると思われます。
 
39歳、32歳で京都帝国大学教授、42年、35歳で東京帝国大学教授に就任し43年、36歳で文化勲章を受けていますが、時はまさに戦時中、原子爆弾の開発などが国の至上命題とされた翼賛体制の中であったことも、思い出しておく必要があるでしょう。
 
ともあれ、それまでは「末は博士か大臣か」と言われた博士号を31歳で受けた湯川さんは36歳で文化勲章、42歳でノーベル物理学賞という「受賞履歴」を辿って行くことになります。
 
(この項つづく) 
 
 
 
 
 伊東乾の「知の品格」
vol.10 学位の品位はどこに(8) 

  執筆者プロフィール  

伊東乾 Ken Ito

作曲家・指揮者/ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

  経 歴  

1965年東京生まれ。松村禎三、松平頼則、高橋悠治、L.バーンスタイン、P.ブーレーズらに師事。東京大学理学部物理学科卒 業、同総合文化研究科博士課程修了。2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後 進の指導に当たる。西欧音楽の中心的課題に先端技術を駆使して取り組み、バイロイト祝祭劇場(ドイツ連邦共和国)テアトロコロン劇場(ア ルゼンチン共和国)などとのコラボレーション、国内では東大寺修二会(お水取り)のダイナミクス解明や真宗大谷派との雅楽法要創出などの 課題に取り組む。確固たる基礎に基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進。06年『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗っ た同級生』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞後は音楽以外の著書も発表。アフリカの高校生への科学・音楽教育プロジェクトな ど大きな反響を呼んでいる。新刊に『しなやかに心をつよくする音楽家の27の方法』(晶文社)他の著書に『知識・構造化ミッション』(日経 BP)、『反骨のコツ』(団藤重光との共著、朝日新聞出版)、『指揮者の仕事術』(光文社新書)』など多数。

 
(2014.9.17)
 
 
 

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