「あー、なんかひとつうまくいくと、全部、うまく回っていくなー。ああちゃんは、ほんとによくがんばってる。すべて、ああちゃんのおかげだ」
――第八章より 関係が修復してからのご主人の新たな口癖
『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』(通称『ビリギャル』)が昨年からベストセラーになり、“ビリギャル現象”が起きている。映画化も決まり、連続テレビ小説『あまちゃん』でブレイクした若手女優・有村架純の主演でGW中の5月1日に封切られるようだ。本書は“ビリギャル”のお母さん「ああちゃん」が書いた、あと2人の子どもも同じくビリだったところから再生させた“ビリママ”の話。“ビリギャル”ファン待望の一冊である。
・・・と、こう書けば確かに一通りの紹介にはなるだろう。しかも、“**現象”全般を斜に見るうるさ方のお歴々(特に今回は教育界が相手だ!)も存分に刺激しつつ。ファンの期待にもうるさ方の期待にも応える、まことに〈効率〉のよろしい紹介――だが、それでいいのか?
答えは激しく「No!」だ。本書でああちゃんが伝えていることが真逆だからだ。どう真逆なのか? 例えばこんな箇所。
「服装が派手になったからとか、人と違うことをするからとか、タバコをすってしまったからとか、ピアスの穴をあけてしまったからとか、化粧をするようになったからとか、髪を染めてしまったからとか、いつかみな、時期が来たらするかもしれないことを早くやっただけで、“悪い子”と断じるのは、私は違うと思います。」p202
“悪い(とされている)ことをやった(ことがある)子”と“悪い子”とはまったく違う。前者が正確に意味を示すには後者にカッコを2つも付け足さなければならない。なのに世間で両者がイコールとされるのは、そこに〈効率〉の経済的発想が働くからだ。
社会の発想はその時代の経済システムに影響されるという意味で、現代の学校教育や子育ては資本主義経済の「即時等価交換(キャッシュオン)」の原則の暗喩になっている。「即時」は、生徒たちが教科に習熟するタイミングのばらつきに対する制度側の許容度をせばめ、「待たない」をデフォルトにさせる。習熟が遅い生徒を一見救うかに見える「習熟度別学習」や「習熟度別クラス」も、彼らに伝わるメタ・メッセージは「待たない(置いていく)」であり、「上のクラスにも追いつけば入れる」のメッセージは同じ校内で運用する限り「待たない」を打ち消さず、追いついた生徒の中で「置いていかれた」という自己像は書き換わることはない。代わりに増長するのは、自分より習熟が遅い者への攻撃や蔑視として現れる心理的防衛機制だ。「等価」についても、教育制度側の基準に照らした要素の「不足」が負債として利子付きで繰り越されるのにくらべ、「過剰」は贈与経済の社会におけるほど有効に働かず、市場で買い叩かれて終わる・・・。
*
ああちゃんがビリギャルさやかさん、ご長男、次女のまーちゃんの3人を育てたやり方はことごとく、これらの経済的発想の逆だった。それを支えたのが、『ビリギャル』著者でさやかさんを教えた塾の坪田信貴先生の考え――東大に行く子も、ビリの子も、地頭の差なんてたいしてない。遅れているか、いないかだけ。高校2年でも、小4の知識で詰まっているならそこに戻る。それだけで、できない子が、できる子に変わっていく。(p95)――だった。本書のああちゃんはこの考えを、子どもの教育だけでなく、子どもたちとの親子関係においても、夫との夫婦関係においても信じ、実践した。置いていかず、待った。それらの関係に関し小4レベルで躓いていた自身を認め、そこに戻ってきちんと時間と労力を払い、やり直していった。
「あるとき、(高校生になって自暴自棄になり、怖そうな目つきの仲間に入った)長男が夜遅くに帰ってきて「眠れない」と言いました。私が自分の布団の横に、もう1枚布団をしくと、長男はすぐもぐり込んで、横になり、「ああちゃん、ごめんね」と言いました。」p195
「(自分の夢を押し付けていたことを長男に謝った夫を見て)夫を追い込み、自分を正当化することで、子どもたちを自分一人で幸せに育てられると思っていた自分自身の、大きな間違いに気づいたのです。/その後、私たち夫婦は多く話し合うようになりました。そして、一緒に、今までの自分たちの間違いを自覚し、息子を暗闇から救いだそうと決意しました。」p192
高校生の長男に布団をへだてて添い寝する母――これこそ本書全体の暗喩である。人の関係は本質的に経済効率と相容れない生理的なものだ。特に家族はそうだ。だからこそ、戻ってやり直しさえできるなら、変えられる可能性も、いつまでも残っている。そう勇気づけられる1冊である。