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今、“かっこいい” ビジネスパーソンとは
第3回 引き受ける力

 
 
  そうした連鎖があれば、国力がどんどん落ちても ――落ちることは確実ですが―― 元気はなくなりません。「不安ベース」 ではなく 「幸せベース」 で生きていけます。「不信ベース」 ではなく 「信頼ベース」 で生きていけます。そういうふうに生きられる人の周囲には、感染した人たちが集い、「幸せベース」 や 「信頼ベース」 の生き方が拡がります。それでいい。
 2008年の秋葉原殺傷事件のとき、マスコミや若手論客が 「グローバル化による経済格差が、弱者の若者を直撃したから、アキバ事件が起こった」 という図式を喧伝しました。間違った図式です。「新興国を富ませるグローバル化 (資本移動の自由化) が避けられない以上、その影響が個人を直撃しないように社会的包摂を確かなものにする以外ない」 のです。
 それが国際標準の考え方です。しかも、単なる政治的イデオロギーではなくなりました。リベラルを自称する人たちもこの考え方に近づいています。英国でのニューレイバーないしブレア政権が典型です。「新しい社民主義」 として掲げられた 「小さな政府と大きな社会」 は、保守党サッチャー政権で大臣を歴任したダグラス・ハード男爵が言い出したことです。
 ただし一点だけ違いがあります。「大きな社会」 を昔と同じ伝統家族や伝統地域と同一視すると、イデオロギー的な排除機能を果たすので、伝統家族や伝統地域と機能的に等価な働きを示すのであればOKという具合に考えて、包摂を心がける点です。とはいえ、これは別に右翼が反対するべき立場じゃない。ハード男爵の意図から離れるわけでもない。
 僕は繰り返し 「個人がシステムにむき出しで晒される状態は良くない」 と言ってきました。社会的包摂の緩衝材があれば、経済的に多少失敗した程度では路頭に迷わずに済むし、マスコミやネットの煽りを真に受ける孤独な弱者も少なくなります (新しい社民主義の望み)。加えて、スゴイ人の近くで自分も感染してスゴくなる人が増えます (真性右翼の望み)。
 
 


絆の中に埋め込まれて生きよ

 
 難しい話をしましたが、簡単に言えば 「幸せに生きるとはどういうことかを考え、みんなが幸せに生きられるようにするには何が必要かを考えて、それがたとえ不可能であってもヘコタレナイで必要なことを実行していく」 ということに尽きます。何度も言いますが、これは今やイデオロギーじゃありません。そうしないと社会が続かないということです。
 実際、今の日本は社会が続かなくなる寸前です。そのことを示すデータが二つあります。第一は自殺率。98年3月から自殺率が急増し、イギリスの3倍、アメリカの2倍で、先進国中ダントツです。病気や事故などで失職した途端に家族離散。孤独に暮らしながら精神的に追いつめられて自殺というのが典型です。つまり “金の切れ目が縁の切れ目” なのです。
 第二には労働時間。ヨーロッパは年1400時間台、アメリカは1700時間台に対し、日本は1900時間台。サービス残業を入れると2200時間。これでは家族の営みにも、地域の営みにも、教会の営みにも、NPOの営みにも参加できません。だから、人々の参加によって支えられる社会的包摂の厚みが決定的に欠けている。“社会に大穴が開いている” のです。
 この二つが意味しているのはこういうことです。日本は経済を優先させるべく、社会に大穴が開くがままにしてきた。経済が回るうちは、社会の大穴が辛うじて埋め合わされた。ところが “金の切れ目が縁の切れ目” で、経済が回らなくなった途端に社会の大穴が露呈した。だから、再び経済成長すれば大丈夫という発想は、問題の本質を見ていないのです。
 しばらく経済の好転は期待できません。加えて、共同体的自己決定をベースにした下からの積み上げを背景にしてなされる国際的な政治ゲームにも確実に取り残されます。つまり日本の国力は著しく低下します。であれば 「幸せとは何か」 の問いへの答えは自明です。絆のある人間関係の中で生きられること。“貧しくても楽しい我が家” 以外にはありません。
 ただし、先ほど申し上げたように、我が家の形はいろいろで構いません。そんなことにこだわる余裕はありません。人々に感情的安全を保障し、いつでも帰って来られるがゆえに冒険や挑戦に乗り出して行けるホームベース (本拠地) になるような、そして出来れば子育ての機能を果たすことができるような、人間関係ならば、我が家と言えるでしょう。
 1960年代の学園闘争の時代には、「人は何のために生きるのか?」 という問いが青年たちの間で 「20歳の原点」 的に語られました。それに倣って言えば、2010年代の世界不況の時代には、「幸せに生きるとはどういうことか?」 という問いが青年たちの間で語られなければならなくなりました。僕は、これは良いことなのだと、積極的に捉えたいと思います。
 ただし 「幸せ」 は観念的に考えても無駄です。大切なのは先輩や年長者から 「幸せ」 についての勘違いの四方山話を聞くことです。「金さえありゃ幸せになれると思っておったが、今の俺は金があっても孤独や」 とか、「俺は若い時分から女にモテまくったんだが、病気になったときに支えてくれる女はおらんかった」 とか(笑)。
 僕の世代は、そういう話を普通に聞いたり目撃できたりした、最後の世代です。そのことが今の僕を支えています。「お前みたいな奴は勘違いをしやすいから俺の話を聞いとけ」 みたいに年長者に説教される。「これさえあれば幸せになれる」 みたいな万人共通の “幸せ理論” などないと知る。そうやって初めて 「幸せ」 について有効に学ぶことができるのです。
 
 経済的にはこれからも暗い状況が続きます。「経済さえ回復すれば」 はもはやあり得ないでしょう。そんな社会で幸せに生きるには何が必要か。人を排除しない建設的な絆のなかに埋め込まれることです。制度がいろんなことを信頼可能にして人を自由にするのと同じく、絆も帰還可能なホームベースを与えることで人を自由に振る舞えるようにするのです。
 人が自由に振る舞うには、「社会的には」 制度やシステムを信頼できることが必要ですが、「心理的には」 ホームベースに帰還できることが必要です。その両方があって人は初めて自由になれます。ただそのためには、一方で、制度やシステムを自ら参加してチェックすることが必要であるように、他方で、絆コストを支払って自ら絆を作り出す必要があります。
 いろんな絆コストがかかります。不便でも戸建に住んで、ゴミ当番や回覧板当番や会費徴収の当番なんかを務め、都合が悪いときには当番を代わってもらい、代わってもらったお礼にちゃんとお土産を買って持って行く・・・ といった遣り取りを通じて、やがて相互扶助のネットワークに埋め込まれるようになります。絆コストのない絆は絶対にありません。
 そのことが分からないで、煩わしさのなさや便利さを求めて郊外のマンションに居住しながら、絆のなさを嘆くのは、愚かだと知るべきです。社会の相互扶助は 「いいとこ取り」 ができません。コンビニエンスストアで物を購入するように 「うまい早い安い」 的に人間関係の便益を享受することは絶対にできないのです。そのことを知ることがとても大切です。
 
 
 
 
 
 

 執筆者プロフィール 

宮台真司 Shinji Miyadai

首都大学東京教授 社会学博士

  経  歴  

1959年3月3日、宮城県仙台市生まれ。私立の名門、麻布中・高校卒業後、東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。社会学博士。大学院在学中からサブカルライターとして活躍し、女子高生のブルセラや援助交際の実態を取り上げ、90年代に入るとメディアにもたびたび登場、行動する論客として脚光を浴びた。その後は国内の新聞雑誌やテレビに接触せず、インターネット動画番組「マル激トーク・オン・デマンド」や個人ブログ「ミヤダイ・ドットコム」など自らの媒体を通じて社会に発信を続ける。著書は『日本の難点』(幻冬舎新書)、『14歳からの社会学』(世界文化社)、『〈世界〉はそもそもデタラメである』(メディアファクトリー)など多数ある。

 

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