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今、“かっこいい” ビジネスパーソンとは
第3回 引き受ける力

 
 

〈郷土〉なき時代の「良い企業」

 
 ただし、「人を幸せにする」 という場合の 「人」 とは誰かが問題です。この 「人」 が、「今ここ」 で自分の周囲に近接する人たちに限られている限り、やはり社会は存続できません。「人を幸せにする」 という場合の 「人」 が、地球の裏側にいる人たちや、子々孫々の人たちのように、「今ここ」 で近接する人たちを越えた最大限の拡がりをもたなければならないのです。
 問題が社会の存続可能性を左右する事柄である以上、どのみち 「人を幸せにする」 企業だけが評価され、繁栄する世の中になります。企業の考える経済的善が、消費者の信頼という長期的善よりも、株主にとっての短期的善に短絡する昨今でしたが、リーマンショック以降、企業にとっての経済的善と人々の考える社会的善とが、再び重なろうとしています。
 どの社会にも、固有の仕方で社会的善を尊ぶ文化があります。宗教的心性だったり血縁主義的心性だったり階級文化的心性だったり・・・。日本の場合は柳田国男が考えたような 〈郷土〉的心性です。地方から出てきたかつての 「帝大エリート」 らは、故郷にリターンを返すことが善でした。故郷の人たちもエリートを中央に送り出すことを誉れと感じました。
 しかし、今の日本に 〈郷土〉的心性はほとんどありません。世界を見ると 「修身斉家治国平天下」 ではないけれど、「自分たちでできることは自分たちでやる」 という地域自治から積み上げる形で、国家に役割を果たさせる方向になってきました。ヨーロッパで言えば 「補完性の原則」 ですし、アメリカならば 「共和主義の原則」 です。日本はどうでしょう。
 先日、コペンハーゲンで開催されたCOP15 (気候変動枠組条約第15回締約国会議) を取材した際に実感しました。これからは国連コンセンサス方式は通用しません。つまり、各国首脳が全会一致で国際条約を締結する方向は確実に廃れます。理由は、環境問題にせよ、軍事問題にせよ、各国にとって存亡を決するような問題の解決には、なじまないからです。
 そうではなく、1997年の京都会議の裏で開催されていたオタワ会議 (地雷廃絶国際条約締結会議) が国際条約締結に失敗した後、「この指とまれ」 式のオタワプロセスに移行し、やがて国際社会全体を巻き込んで行ったのがヒントになります。日本も当初は否定的でしたが、最終的には地雷廃絶国際条約を批准しました。背後にはNGOの活発な活動がありました。
 環境問題も同じ方向になるでしょう。2009年末に鳩山首相が国連で宣言した25%削減目標の御陰でCOP15では辛うじて日本の座席がありましたが、この25%パスボートは1年間ももちません。今後は国内の各地域住民が、地域主権の実を上げる形で環境問題への取組実績を積めるかどうかが、日本国の国際会議における影響力を決めるようになります。
 アメリカや中国は確かに国連コンセンサス方式においては環境問題に否定的に振る舞ってきました。でもそこだけ見るのは間違いです。中国高官がCOP15で 「25%? 笑わせるな、日本には何の実績もない以上、できるわけがない」という趣旨の発言をしました。アメリカも中国も、国際会議での振る舞いはともかく、国内で実績を積み上げてきています。
 日本は25%削減目標を宣言しましたが、環境問題への取り組み―― 具体的には (1) 排出量取引、 (2) 自然エネルギー(固定価格買取制度)、(3) 炭素税 (温暖化対策税) の3本柱 ――について、何もやっていないどころか、議論の緒にもついていない。中国高官に言われるまでもなく、このままでは程なく日本の発言権はなくなり、日本に不利な枠組を確実に飲ませられます。
 これらの政策は個々にはいろいろ欠点があります。だとしても各地域がそれぞれの実情に応じてこれらの政策について実績を積む以外に、環境問題の国際的解決はない。この事実を無視して理屈を述べ立てる国は、国際的ポジションを必ず失います。このことを僕は 「これからは風の谷方式しかない」 と言います。むろん 『風の谷のナウシカ』 に由来します。
 動きはいろいろ始まっています。自然エネルギーの推進、農業その他の一次産業への注目、地産地消運動、スローフード運動、スローライフ運動、リサイクル運動、地域経済の保全による地域文化の保全・・・。これらに向けて地域主権の実を上げるべく取り組める企業だけが、これからの 「人を幸せにする企業」 の中心になることでしょう。
 
 


地方の総郊外化

 
 こうした思考はヨーロッパでは常識に近いものですが、日本では違います。「ジャパネットたかた@長崎」 のように郷土にこだわった企業は特殊な例です。地方の経営者からも、地方出身の一般ビジネスマンからも、郷土愛はどんどん失われてきています。これは、人の問題というよりも、そもそも郷土愛を抱けるような地方が消えたことが大きな理由です。
 人々が集える井戸端や縁側がなくなりました。醤油を貸し借りしたりする関係もなくなりました。年長の子が年少の子の面倒を見る原っぱの縦社会もなくなりました。世代交代によって世代間の断絶も進みました。消防団的な繋がりだけがかろうじて残っています。でも、“同じ中学校卒業生繋がり” なので、閉鎖的すぎて新住民を包摂できないのです。
 だから、郷土らしさや地元らしさを求める人たちは、出身の地方に帰るよりも、東京だったら中央線沿線や世田谷など、まだ旧住民のネットワークが残っている都会の街に住むようになってきました。新住民であっても、しかるべき 「絆コスト」 を払って旧住民ネットワークの中に入れれば、“らしさ” に包まれて生きられるからです。これは合理的選択です。
 地域の空洞化の原因は、僕の言う 「バイパス問題」 が分かりやすいでしょう。日本の地方の町は基本的に 「鉄道城下町」 でした。駅前商店街の周辺に、住宅地が拡がるという形です。昔の日本映画を見ると分かりますね。ところが、とりわけ田中角栄の時代以降、「モータリゼーションの時代に適応する」 と称して、各地方はバイパスを作りまくってきました。
 公共事業の恩恵にぶら下がるためです。これは誤った方向でした。結果はどうなったか。駅前商店街はどんどん寂れ、バイパス沿いに消費者金融やパチンコ屋やロードサイドショップなどの郊外型店舗が立ち並びました。駅前商店街 「とは別に」 もう一つの賑わいの場所を作るはずだったのが、経済の中心が、駅前からバイパス沿線に移ってしまいました。
 経済的中心が移動しただけならば差し引きゼロですが、それじゃ済まなかった。鉄道城下町には旧住民の絆があり、そこで育てば郷土愛を育めます。バイパス沿線にはそれがない。どこに行っても同じ風景。流動性の高い新住民が増えますが、彼らは旧住民のような絆を作れない。かくしてバイパス化は 「入替え不可能な人と土地の関係」 を壊しました。
 
 


絶望を経て
共同体的自己決定へと至れ

 
 もちろん 〈郷土〉 に代わる機能的等価物を打ち立てられれば良い。それには、そこに生きる人々が意識を共有する必要があります。「昔あった貴重なものが今失われている」 という問題意識を共有し、「昔の地域をそのまま再現することはできない」 という事実認識を共有した上で、かつての 〈郷土〉 の機能的等価物を作ろうという意識を共有する必要があります。
 長い目で見ればそうなるだろうと思います。理由はそれ以外に地域再生の方途がないからです。でも 「それ以外に方途がない」 と気付くまでに下手をすると20年も30年もかかるでしょう。そのころには昔の地域を知る人もいなくなり、辛うじて残っていたリソースも死滅します。そのことを考えると絶望的になります。この絶望を深く共有するべきです。
 政治は期待できるでしょうか。僕は現政権が期待はずれだとは全く思いません。というのは、政治の力は所詮こんなものだからです。「こんなもの」 と思えることが大事なのです。だって、「お任せする政治」 から 「引き受ける政治」 に変わらなければならないのだから。ここから先は 「引き受ける政治」 を各地域住民が主体的に展開できるかどうかということです。
 
 

 

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