B+ 仕事を楽しむためのWebマガジン

スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 
インタビューの中で、プレッシャーをどう乗り越えていたのか聞くと、笑いながら「乗り越えられていなかった」と話してくれた福田さん。その経験を次の世代に伝えたいと言う。
 
 

自身の経験を伝えていく

 
引退したときに、肩の荷が降りたと感じました。ふっと楽になったんです。僕は、プロの選手である限り、プレッシャーがあることは当然だと思います。ただ、今になって振り返ると、必要以上のプレッシャーを勝手に背負っていたのかもしれません。もう少し、楽な気持ちでプレーできたんじゃないかと思うこともありますね。
 
1993年にJリーグが発足したときは急激にサッカー人気が高まり、僕はその状況の変化についていくことができませんでした。環境の変化に適応できず、余裕がなくなってしまったんです。ただ、3年目にホルガー・オジェック監督が就任したことによってそれが改善されました。彼は、選手それぞれの役割を整理してくれたんです。それまでは、誰がどんな役割を果たせば良いのかもわからない状況でした(笑)。彼は僕に対して「点を取るのが君の仕事だから」と言ってくれまして。それによって段々と余裕を取り戻し、自分のプレーを見つめ直すことができました。
 
オジェック監督に出会えていなければ、僕のサッカー人生はもう少し苦しいものになっていたでしょう。だから、本当に救ってもらったと思っているんです。役割をはっきりさせてもらったことで、その仕事に対する責任も生まれました。その結果、試合で自分が何をできたか、何ができなかったのかが明確になったんです。
 
課題が明確になると、次の目標が立てられる。次の試合に向けて、きっちりとした計画を立てられるようになりました。また、目標を達成できなかったときの気持ちのコントロールも重要です。悔しいという気持ちは誰にでもあるもの。それを「次は絶対にやってやる」というプラスの気持ちに変換することが大切なんです。ただ、それはわかっていてもなかなか難しいこと。悔しい気持ちをバネにできる選手が、一流と呼ばれる選手になれるのかなと思っています。
 
そういった考えは、プライベートで現役選手たちに会ったときに伝えるようにしています。彼らもプロなので、「こうしろ」「ああしろ」とは言えません。「こうしたら、こういうことがあったよ」と僕の経験を伝えることで、自分にとって大切なことに気付いてくれたら良いなと思っています。
 
ただ、僕は情に熱いタイプなので、選手たちと距離が近付きすぎることのないように注意はしています。メディアの仕事で彼らを評価するときは、フラットでいないといけませんからね。今後もそういったバランス感覚や、自分の言葉で伝えるということを大切にしながら、視聴者の方々にサッカーの楽しみ方を提案していきたいと思っています。
 
 
 
(インタビュー・文 中野夢菜/写真 Nori/ヘアメイク 髙柳尚子/スタイリスト 松本ユウスケ)
衣装協力
DbyD *Syoukei
(03-3791-3401)
 
 
glay-s1top.jpg
福田正博(ふくだ まさひろ)
1966年生まれ 神奈川県出身
 
1989年、日本サッカーリーグ2部の三菱重工業サッカー部に加入。その年に得点王となるなどの活躍を見せ、1990年には日本代表に発選出された。Jリーグ開幕に伴い同チームは浦和レッドダイヤモンズに改称。引退まで同チーム一筋で戦った。引退後はサッカー解説者として活躍。2008~2010年の間には浦和レッドダイヤモンズのコーチも経験するなど、幅広く活動している。
 
 
 
 
(取材:2020年2月)