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 かつて“天才”と呼ばれた日本人ライダー・宮城光氏が語るオートバイレースの世界。これまで、全てをレースに捧げてきた「2輪レース人生」。それを1997年シーズンいっぱいで「完成させた」と考えた宮城氏は、新たな生き方を探し始める──。
 
 
 さて、これから何をしようか。何でもできるし、何にでもなれる。
 1997年のシーズンオフ、「2輪レース人生」を全うした私は、「これからの人生」に思いを巡らせていた。
 5年に及ぶアメリカ生活・・・特に車両のメンテナンスから運搬、セッティング、レースと全てを自分一人でこなさなくてはならなかった最終シーズンでは、常にギリギリの資金繰りを強いられた。貯金を切り崩したり、日本に置いていた自分のバイクも売り払ったりしてレース資金に充てていたほどだから、生活に余裕は無かった。それに、これまで人生の全てを賭けてきた「トップを走る」ことに代わるほどのものを見つけ出すのは、容易ではない。
 
 そんな状況にあっても、「何もかも失ってしまった・・・」という悲観的な気分にならなかったのは、ここがアメリカだったからだろう。
 
 

何でもできるし、何にでもなれる

 
 例えばの話、心機一転自転車に関するビジネスを始めてもよかった。自転車でトレーニングをするうち、その走りや細部の仕上げに不満を覚えるようになった私は、アナハイムにあるマウンテンバイクの工房「チャンバ・ワンバ」にオリジナルの図面を持ちこんだことがある。「同じ2輪なのだから、車体のジオメトリやサスペンションのセッティングに自分のレースのノウハウを活用できるのではないか」と考えたわけだ。
 こちらは日本人なうえに自転車に関してはまったくの門外漢、彼らはアメリカでその道十数年のプロフェッショナル。「あんたはマウンテンバイクをつくったことがあるのか」と追い返してもよかったろうに、何と彼らは私の話をじっくり聞き、そのうえ図面を買い取ってくれたのだ(ちなみに、私の設計したマウンテンバイクは、その後、NORBAナショナル・ダウンヒルのプロ・レディースクラスで年間チャンピオンマシンになった)。
 
 あるいは、アメリカホンダに現地採用枠で就職をするのも選択肢だった。
 渡米してすぐ訪れた、トーランスのアメリカホンダ本社の威容を目の当たりにしたときの胸の高鳴りは忘れようもない。小さな町工場から始まり、自らの信念にもとづいた製品をつくりつづけてきた会社が、異国の地でこれほどまでに大きな会社として存在し、人々に受け入れられている(彼の地でアメリカホンダは「就職したい会社ランキング」で常に上位だ)・・・。大げさでもなんでもなく、私は「日本人の誇り」を感じて身震いがしたものだ。
 私はずっとホンダとともにあったから、彼らの目指すものづくりについては熟知しているつもりだ。いっぽうで「アメリカそのもの」を語るハーレー・ダビッドソンのチームでレースをする中で、大きく見識が広がったという自信もあった。そんな経験を活かして、今度はホンダに貢献することができたならば、これほど素晴らしいこともない。
 
 

日本に居場所は・・・

 
 アメリカの人々にとって、ビジネスをするうえでの判断基準となるのは「今何ができる人材なのか」だけで、過去の経歴も年齢も関係ない。加えて、これまでのアメリカにおけるレースの戦績や、1995年にチームを結成したことによる技術の伝承や雇用創出なども認められ、1997年に私は米国の永住権を取得していた。だから、少なくとも自分に「やってみたいこと」がある限り、そこにメリットを感じる人がいる限り、ここでビジネスをしていくことができる。
 
 私がアメリカに根を下ろして生きようともがいていた5年の間に、日本では様々なことが起こった。バブル崩壊の影響はますます深刻なものとなり、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件といった恐ろしい出来事も立て続けに起こった。私がアメリカへ旅立った1993年の日本の空気と、そこから5年を経た1998年の日本の空気。それは、私をよく言う「浦島太郎状態」にしてしまうほどに違うものだったし、私の知る日本は、「今何ができるか」よりも、過去の経歴や年齢を重視する場所だった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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