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 織田信長による度量衡の統一や貨幣の統一という画期的な施策は数量観念の発達を促し、帳簿の技術も発達。16世紀中頃には、単純発生別記帳から事項別に帳面を分ける優れた方法が導入されたのだといいます。堺屋太一氏によれば、この仕分別記帳法を用いれば項目別残高の概念、不良債権把握、債務の廃棄、損耗などが解明できるとしており、戦国時代の簿記方法は、今日の日本の官庁会計の源流といってよいと言っています。
我々職業会計人からすると、やや説明不足の気がするものの、とにかくこれらの経理技術の著しい発達は信長の近江占領後のことで、この経理技術に長けていた増田長盛、長束正家、石田三成、藤堂高虎らはすべて近江人。これらの技術を太閤検地等によって普及させたのも近江人でした。大阪城のような巨城を建てられたのも、20万もの大軍に過不足なく糧秣(兵士の兵糧と軍馬の馬草) を配ることができたのも、この経理的技術があったればこそだと言っています。
仕分別記帳方法の採用は、「20世紀後半におけるコンピュータ管理にも優る衝撃的な事件だ」 とまで堺屋太一氏は言っています。
 私としては、今日の日本の官庁会計の源流が、安土桃山時代の事項別の仕分別記帳法、言葉を現代風に言い換えれば、国・地方公共団体や公益法人等の特別会計にあるとするならば、特別会計や予算準拠主義こそ、根雪のように残ってしまう埋蔵金的金員が発生してしまう元凶だと言いたいんです。このことは、先月号(平成23年1月号)の、埋蔵金はなぜできるのか?― 徳川埋蔵金伝説から霞が関埋蔵金まで―で紹介したとおりです。
 
 

4、豊臣秀吉の偉大さと財務担当役員の重要性

 
 話がそれてしまいましたので戻しましょう。ここで私が言いたいのは、経理的基礎をしっかり持った領地経営コンサルタントでもあった増田長盛、長束正家、石田三成、大谷吉継、細川忠興ら主計を重んじた豊臣秀吉の偉大さです。彼らは、現代風にいえば一部上場会社の財務経理総務担当取締役といったところでしょうか。
度量衡の統一、貨幣の統一、太閤検地、楽市楽座等を通じての数量観念の発達が、簿記的経理技術の飛躍的発展に結びついたのです。そして15世紀末の太閤検地から16世紀末までの1世紀間で当時の日本の国民総生産は3倍になったと見られています。明治維新以前において、これほど急速な経済成長を成し遂げた時代はなかったといわれています。
しかし、簿記的技術の発展といっても、まだ単式簿記の域を出ていません。昨年(平成22年) 暮れに映画化された 『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』(磯田道史氏・新潮新書) も単式簿記です。ここに登場する猪山家は加賀百万石の算盤係(御算用係)で、会計処理の専門家であり経理のプロでもあります。いずれじっくり分析してみたいと思っています。
さて、ベニスの商人が始めた複式簿記は、この当時存在してはいたものの、日本にはまだ伝わっていません。日本への導入は、明治6年(1873年)に福澤諭吉がアメリカの簿記教科書を翻訳した『帳合之法』の刊行まで待たなければなりません。個人的には、せめて江戸時代の前期にでもこの複式簿記が伝わっていれば、日本の経済発展もまた別な展開をしたのかもしれない、と思うと残念でなりません。
軍事的必要性から様々な技術革新や管理技法が高度に発達する事例はいつの時代にも当てはまります。しかし、目立った軍役がなく平和だった江戸時代では、たとえ複式簿記の技法が紹介されていたとしても、それが受け入れられ、普及する下地はなかったかもしれませんね。
 
 
 
 
 

 執筆者プロフィール 

渡辺俊之 Toshiyuki Watanabe

公認会計士・税理士

 経 歴 

早稲田大学商学部卒業後、監査法人に勤務。昭和50年に独立開業し、渡辺公認会計士事務所を設立。昭和59年に「優和公認会計士共同事務所」を設立発起し、平成6年、理事長に就任(その後、優和会計人グループとして発展し、現在70人が所属)。平成16年には、優和公認会計士共同事務所の仲間と共に「税理士法人優和」(事業所は全国5ヶ所)を設立し、理事長に就任。会計・税務業界の指導者的存在として知られている。東証1部、2部上場会社の社外監査役や地方公共団体の包括外部監査人なども歴任し、幅広く活躍している。

 オフィシャルホームページ 

http://www.watanabe-cpa.com/

 

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