B+ 仕事を楽しむためのWebマガジン

トピックスTOPICS

Vol.9 2輪レース人生 最後の1ピース

 
 
 ホンダが満を持して送り出した4気筒モデルであり、当時ダントツの高性能を誇った「CBX400F」を、私は発売日に真っ先に手に入れた。そして、その日のうちにナンバーを取得できないよう保安部品を取り外し、ホンダのデザイナーがこだわり抜いて形にしたであろう、かっこいいコンビメーターをのこぎりで切断し、ヘッドライトをゼッケンプレートに付け替えた。「ツーリングも、サーキット走行もできるようにしよう」などということは考えなかったわけだ。
 誰も乗っていないバイクを、真っ先にレース仕様に改造し、延々と走り続けていれば、注目も集まる。アフターパーツのメーカーは私のCBXを製品開発に使いたいと申し出てくれたし、速く走りたい(しかも、せっかくなら最新のバイクで)私の思惑と、人気のマシンで真っ先に新しいパーツをつくりたいアフターパーツメーカーの思惑は一致し、私の「ビジネス」は発展した。
 
 国内でレースをしていた間のことはここでは省くとして、最初に所属したモトリバティでは、とにかく「再起」のために速く走りたかった。これが、レース界からチームの評価にも繋がったし、私が有力チーム、エリオン・レーシングに移籍するきっかけにもなった。3年目にして結成した私のチーム、アクション・スピードでは、「自分の足でアメリカのレース界を歩みたい」という私の想いに、若いメカニックたちが「プロになるための足がかり」としての可能性を見いだしてくれた。
 そして、アメリカに根を下ろしたいと願って移籍した4年目のバーテルズ・ハーレーダビッドソンでは、私は彼らと日本の市場との間におけるパイプとしても機能した。
 では、5年目の今年は? ここまで、ライダーとしての努力を怠ったことは無かったという自信はあった。それでも、結果として私から与えられるものが何も無くなってしまった・・・というのが、おそらく「スタッフをここに連れて来られない」状況の根にあるものだったのだ。
 
 

困難を極める「一人チーム」

 
 とは言え、今更何かを悔やんだところで、何も始まらない。一人で全てをこなす体制で参戦を始めるわけだが、当然のことながらこれは困難を極めた。
 自分でバイクを整備してトラックへ積み込み、丸2日をかけてフロリダのデイトナ・インターナショナル・スピードウェイへと向かう。セッティングをして予選・決勝と戦う・・・。とてもではないが「速く走る」ことに集中できる環境ではないうえ、転倒すればそのまま即レースウィークが終了する以上、走りは消極的になり、当然結果は低迷する。
 
 そんな状況を見かねて、またも手をさしのべてくれたのは、USスズキの社員であり、これまでも公私ともに私を応援してきてくれたアキ・後藤さんだった。整備のための場所と工具を貸し出してくれただけでなく、西海岸については、アメリカでの成功を夢見て日本からやってきた若いメカニック、門間さんと一緒にサーキットでサポートをしてくれたのだ。
 この、「与え、与えられ」という関係を超越したつながりは、この苛酷なシーズンに打ちのめされた私に生きる力を与えてくれたと言ってもいい。後藤さんがいたからこそ、私はこのシビアなビジネスの世界を何とか泳ぎ切ることができたのだと思う。
 
 ・・・その後、私はトラックドライバーの役割を買って出ることで、スポンサーのひとつであるクラッチメーカー、バーネット(ハーレー・ダビッドソンに創業当時からクラッチを供給している名門メーカーだ)のレーシングチームにジョイントすることができた。これによってバイクの運搬、ピットの設営といった手間こそ軽減されたものの、メンテナンスを自分自身で行い、さらにはラップタイムやポジションを知るためのサインボードを出すスタッフさえいない状況では、上位進出など望むべくもなかった。
 
 

「レースの神様」からのプレゼント

 
 ──1997年、全米選手権GP250クラス、13位。
 常に目指し続けた「トップ」とはほど遠い成績で私の「レーシングライダー」としてのキャリアは終わる。ワールドチャンピオンを獲得したわけではないし、ビジネスを拡大させて巨万の富を築いたわけでもない。成功への足がかりを掴もうかというたびに、不運にも見舞われてきた。借金こそ抱え込みはしなかったものの、最後のシーズンをもって何もかも手放し、貯金も使い果たしてしまったのだから、成功か、失敗かというふたつにひとつの観点で見れば、明らかに「失敗」だったと思う。
 
 それでも、全日本ロードレース選手権でトップを争い、挫折を味わい、再起を賭けてアメリカのレース界に全力で挑んだ。ここでも、天国から地獄まで、レースにまつわるありとあらゆるものを体験してきたし、特にレーシングライダーとしての原点に戻ることのできた最後の1年は、「レースの神様」からのプレゼントだとさえ思っている。
 これこそ、私が望みうる2輪レース人生」というパズルの最後の1ピースであり、「やり切った」と言えるところまで到達できたのだから。
 
 
 「トップを走る」。それは私がバイクに乗り始めてから「成し遂げたいこと」のナンバーワンであり続けた。そして、それが誰かのプラスになったとき、そこにビジネスが生まれてきた。
 私がアメリカで知ったのは、「ビジネス」という言葉が「取引」とか「商売」といった意味と同じくらいの頻度で、もっと身近な「自分のやるべきもの」「自分のやるべきこと」くらいの意味で使われていたことだった。
 ビジネスは生きるために必要なものだから、当然、好きなことだけをしていくわけにはいかない。しかし、何をするのであっても、その先に「自分が何をしたいのか」という自発的な気持ちだけは忘れないようにしたいと考えている。
 
 
──第10回に続く
(構成:編集部)
 
 
 「トップを走れ、いつも」
vol.9 2輪レース人生 最後の1ピース 

 執筆者プロフィール  

宮城光 Hikaru Miyagi

MotoGP解説者

 経 歴  

MotoGP解説者、元HONDAワークスライダー。1981年からオートバイレースを始め、1983年の全日本選手権(GP250クラス他)でチャンピオンを獲得。翌84年は同選手権F-1クラス(4ストローク750cc)に参戦し、またもチャンピオンを獲得。その後も主に全日本と全米選手権でHONDAワークスライダーとして活躍し、2000年からは4輪レースでも活躍。引退した現在はレース解説やモーターサイクル関連イベントの司会、安全運転講話、HONDAの歴代レーシングマシンのテスト走行などで活躍中。

 オフィシャルホームページ 

http://www.hikarun.net

 フェイスブック 

https://www.facebook.com/Bplus.jp#!/miyagi.hikaru?fref=pymk

 
(2015.2.18)
 
 
 

関連記事

最新トピックス記事

カテゴリ

バックナンバー

コラムニスト一覧

最新記事

話題の記事