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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 
インタビューを通じて、岡野さんの謙虚な姿勢が伝わってきた。それは、これまでの経験から培われたものだと言う。
 
 

やるしかないと突き進んできた

 
サッカー界で活躍している方は、幼い頃から実力が抜きん出ていて、名門高校出身の方が多いですよね。僕は、無名中の無名選手でした。高校なんて、いわゆるヤンキー高校。しかも、入学してみたらサッカー部がなかったんです(笑)。でも、やるしかないと思いました。サッカー部がないのなら、つくればいいんです。そうしてサッカーを続けてきました。
 
高校時代の経験は今にも活きていると思います。当時、自分で道を切り開く大切さを学びました。どんな状況でも、「やるしかない」と突き進んできたんです。ただ、僕のような無名の選手が、まさかプロになれるとは思っていませんでした。もちろん夢として「サッカー選手になりたい」とは思っていたものの、大学時代にJリーグが設立されたときも、そこで自分がプレーするとは想像もしていませんでしたよ。
 
だからこそ、オファーをもらったときは本当に嬉しかったですね。しかも、6チームから。その中で、浦和レッズだけが「大学を中退して今すぐ来てほしい」と言ってくれたんです。それだけの熱意を持って声をかけてくださったのだから、もうやるしかない。プロとして生きていくと決意しました。
 
プロになって実感したのは、「応援してくれるサポーターのために戦わないといけない」ということ。浦和レッズはサポーターの熱量がすごいんです。デビュー戦のときも、すでに僕の応援歌をつくってくれていました。たくさんのサポーターが「岡野―!」と叫んで応援してくれるんです。それを聞いたらもう、走るしかないですよね。本当に嬉しかったです。
 
 
日本代表としても活躍した岡野さん。ワールドカップ初出場を決めた、「ジョホールバルの歓喜」についてもうかがった。
 

日の丸の重み

 
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僕のような選手がプロになれたのは奇跡だと思っています。その奇跡が起きたからこそ、「目標はでかくしよう」と思ったんです。当時の浦和レッズには、日本代表にも選ばれていた福田正博さんが在籍していました。だから僕は、福田さんを目標にしていたんです。福田さんのような選手になれれば、僕も日本代表に選ばれるかもしれないと考えていました。そうして努力をしたら、本当に召集してもらえたんですよ。
 
日本代表としてピッチに立つのは、普段の試合とプレッシャーが違います。もちろんいつも「サポーターのために頑張らないといけない」と思っていました。でも、日の丸の重みはまた違います。日本中のサッカーファンのために戦わないといけないし、サッカー選手になりたい子どもたちの夢や目標になる存在でなければいけません。
 
僕は、ワールドカップ出場が懸かっているアジア最終予選のイラン代表戦に途中出場しました。延長戦の末、ゴールデンゴールを決めることができましたが、実はその前に3本もシュートを外しているんです。「なんでサッカーなんてやってしまったんだろう」とすら思いました。あのときゴールを決めていなければ、今の僕はなかったかもしれませんね。
 
試合に勝ち、ワールドカップ出場が決まったにも関わらず、試合後の控え室は静かでした。まるで負けたチームみたいでしたよ。ワールドカップに出場する喜びよりも、「これで日本に帰れる」という安堵感ほうが強かったんです。全員、負けたら日本に帰れないという覚悟で試合に臨んでいましたからね。
 
ホテルに戻ってから、岡田武史監督がお祝いのシャンパンを開けてくれたときも、みんな飲まないで部屋に戻ったくらいです(笑)。試合に勝った喜びを実感できたのは、次の日くらいからですね。「本当にワールドカップ行けるんだ」と嬉しさが湧き出てきました。