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コラム 今、かっこいいビジネスパーソンとは vol.4(最終回) 暗く明るい谷底 今、かっこいいビジネスパーソンとは 首都大学東京教授/社会学博士

コラム
 
現代のビジネスパーソンが置かれた状況を社会学の視点から読み解く連載、第四回。前回は 「引き受ける力」 と題し、歴史的・社会的文脈を引き受けて 「幸せに生きるとはどういうことか」 が正面から問われなければならないことを指摘した。最終回はやや具体的に、分野ごとの処方箋も交えながらお届けする。
 
 
 

政権交代によって変わったもの/変わらないもの

 
 政権交代は日本のエリートたちの政治への意識を変えたでしょうか。僕は変えたと思います。ただその変化は、従来力を持っていた政治家が、力を失ったとか期待に応えられないことがハッキリしたことから来るもの。だから「古い勢力と入れ替わりに新しくて有力な勢力が出てきて、エリートがそれにコミットする」という形には、まだなっていません。
 古いリーダーが退潮したときには新しいリーダーが求められます。でも今のところ、人々が新しいリーダーに求める要素が、古いリーダーへのそれと同じなのです。特に地方の農協や漁業団体は 「陳情を持って行く先が分からなくなった」 といった世迷いごとを言っています。自民党に期待していたことを民主党にも期待できないかと考えています。
 でも、そうじゃない。外務副大臣の福山哲郎さんとの本 〔『民主主義が一度もなかった国・日本』(幻冬舎新書)〕 にも書きましたが、民主党政権になれば陳情先がなくなるのです。僕自身がそうして下さいと言ってきました。自民党的な 「お任せ型」 の政治を続けていては日本が確実に滅びるからです。これからは陳情でなく共同体的自己決定の時代。
 これからの時代、何かを変えたければ、共同体的自己決定で ――僕がいうところの 「風の谷方式」で―― 変えるしかありません。原則、自分たちの自力で変えるしかないのです。唯一 「我々の共同体的自己決定を、然々のように支援してほしい」 と政府に要求できるだけです。ただ、それは陳情というよりロビイングの形をとるはずです。なぜか。
 共同体的自己決定が可能なくらいの人材リソースとガバナンスが共同体内部にあるならば、単なる 「自分の所をどうこうしてほしい」 じゃなく、「日本全体をこうするべきであり、その中に自分たちをこう組み込んでほしい」 という言い方になるはずだからです。ガバナンスの観点 ――全体性の観察――を 含む点が、陳情とロビイングの違いだと一言で言えます。
 
 つまる所、エリートに対する 「期待の構造」 が変わらねばならないのです。現状はどうか。僕のところに 「誰それへの陳情を仲介しろ」 という依頼が来るほどだから、まだまだです。「新しく有能な政治家や官僚が出てくるかどうか」 よりも先に問題なのは 「有権者も含めた地域の人々が共同体的自己決定という新しい事態を理解できるかどうか」 です。
 
 

共同体的自己決定の本義を
いかに民主主義に接続するか

 
 「共同体的自己決定」 という言い方は分かりにくいでしょう。欧州や米国の政治思想史を遡る必要があります。米国を例にとると、ここには建国から南北戦争期まで [ジェファソニズム=共和主義=共同体的自己決定主義] と、[ハミルトニズム=自由至上主義=自己決定主義] とが、対立がありました。この対立は、ある意味では現在まで続いています。
 自己決定主義と共同体的自己決定主義の違いは、後者が共同体的資質=市民道徳 civic virtue を重視するがゆえに 「自由よりも陶冶を重視する」 点です。自由を陶冶の手段として捉えるがゆえに 「陶冶を脅かす自由を否定する」。簡単にいえば、個人を共同体成員として陶冶すべく、自己決定主義者よりパターナリズム(父性的温情主義) に寛大なのです。
 パターナリズムとは 「お前はまだ未熟で、何もかも分からないだろうから、俺の言うことを聞け」 という態度です。パターナリズムに寛大であるとは 「陶冶の観点から自由を制限することに寛大だ」 ということです。米国の思想的本流とりわけ保守は、[自由至上主義=自己決定主義] ではなく、[共和主義=共同体的自己決定主義] だということです。
 間違えやすいことですが、[共和主義=共同体的自己決定主義] を共和党、[自由至上主義=自己決定主義] を民主党が体現する場合もあれば、逆もあります。クリント・イーストウッドに代表される草の根保守ないし極右は、共和党支持層で、完全に共同体的自己決定主義ですが、ブッシュJr 政権を支持した富裕層の多くは、自己決定主義でした。
 欧州にも同型の思想対立がありますが、今日的な問題は、もはや共同体の命脈が怪しくなりつつある昨今、こうした対立は平面的なものではあり得ず、「共同体的自己決定主義を、自己決定で選ぶか否か」 という捩れた主題が浮上していることです。例えば、共同体的自己決定主義を説く書物が、読書人市場で、異なる立場の書物と競争に置かれるのです。
 
 話を日本の民主党に戻します。民主党は先の政権交代選挙で大勝した。ということは 「能力が伴わない政治家が多数生まれた」 ということ。彼らは 「寄らば大樹」 で大きな存在にすがろうとします。そこに、政治過程の能力に長けた小沢一郎氏の権力源泉があり、財力に長けた鳩山由紀夫さんの権力源泉があります。
  「寄らば大樹」 の必要がない 「能力ある人々」 は、小沢氏と距離を取るまでもなく、「寄らば大樹」 が多勢いるがゆえに普通にしているだけで反旗を翻しているように見られがちです。因みに、社会学では、権力について、「権力を握る誰かがいる」 というよりも、「権力を与える人間がいる」 「権力を与える文脈がある」 のだと考えます。
 僕が思うに、「小沢氏が権力亡者で、あらゆる手段で権力をかき集めている」 のではない。「無能な人々」 が小沢さんに権力を 「与えて」 いるのです。全体の文脈を見ないまま、「小沢がどうだから」 と属人的に(小沢氏に問題を帰属して) 思考する限り ――馬鹿マスコミの思考がまさに典型例ですが―― 政治家も市民も現状を変えられません。
 民主主義は数が力。だから民主主義による決定はたいてい間違いです。「実力がない輩が権力の有る人に寄りすがる」 とか 「実力がない輩が実力のある人に嫉妬する」 とか、人が多かれ少なかれ 「浅ましき存在」 である中での 「数は力」 だからです。心ある有権者は、できるだけこうした 「浅ましき存在」 を選挙で落とすように頑張る必要があります。
 有権者のそうした頑張りで、政治家たちの中に 「寄らば大樹」 の 「浅ましき存在」 が占める割合が減るほど、「本来なら力を持つべきエリート」 が力を持てるようになります。「無能な人々」 が 「寄らば大樹で寄りすがれる政治家」 を選ぶのでなく、「有能な人々」 が 「共同体的自己決定を有効に支援してくれる政治家」 を選ぶのが、大切なことなのです。
 
 
 
 

宮台真司 今、かっこいいビジネスパーソンとは

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