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スポーツ トップを走れ、いつも vol.8 キャリア16年目の「初レース」 トップを走れ、いつも MotoGP解説者
スポーツかつて“天才”と呼ばれた日本人ライダー・宮城光氏が語るオートバイレースの世界。「ハーレー」のチームへと移籍し、「バイク」の枠を越えて様々な「アメリカ」を知ることになった1996年。シーズンも終盤に差し掛かった頃、まったく新しい体験をすることに──。
スポーツランドSUGOは、私の大好きなコースだ。そこを、考えられる限りの全力で攻めた。それなのに、まるで走るペースの違う他車が怒り狂ったように咆哮を上げ、右から左から、私を追い越していく。だめだ。どこを走っていいのか、まるで自信が持てない。・・・もし、肉食獣が闊歩するサバンナに子犬が迷い込んだら、こんな気持ちになるのだろうか?
1996年11月、キャリア16年目を迎える二輪のライダーである私は、初めて「タイヤの4つ付いた乗り物」でレースを走っていた。
日本のホンダから「四輪のレースにスポット参戦で出てみないか」という不思議なオファーが私に届いたのは、「ハーレー」のライダーとして、アメリカ全土を転戦していた1996年10月のことだ。
「長年にわたるホンダのモータースポーツに対する貢献への感謝のしるし」として私と青木宣篤選手、伊藤真一選手と辻本聡選手、2組4名のライダーに用意されたのは、市販車をベースとした車両で争われる耐久レース、「スーパー耐久」仕様のホンダ・シビックだった。マシンの製作を行ったのは、「シビック」のレースでは右に出る者はいないと言っても過言ではない名ドライバー、黒木健次さんと山本泰吉さん。
オファーの際に付け加えられていた「マシンは考えられる限りベストのものを用意する」というホンダの言葉は誇張でもなんでもなかったのだ。陣営を離れても動向を気にしてくれていた上に、「クルマでレースをする」という、まったく新しい体験をもたらしてくれたホンダは、あれほどまでに大きな会社であっても、私にとっては家族のような暖かさがあった。
・・・問題は、私がクルマでサーキットを走った経験が無い──いや、正確にはあったのだが、さかのぼること7年、1989年に雨の富士スピードウェイでRUFの「CTR」をおそるおそる走らせたきりだった──ことだ。
モータースポーツは、質量を持った物体を、操る人間の意図する位置へ、適切なタイミングで移動させ、結果として相手よりも早く規定の距離を走りきるスポーツだと言い換えてもいい。1t近くあるシビックを、150kg程度のCBRと同じように走らせることはできない。
これを頭では理解していても、体の動きに繋げることができなかったのには、運転環境の違いもあった。バイクが市販車であろうとレーシングマシンであろうと、基本的には運転操作から運転環境まで何も違いは無いのに対し、四輪では、まるで別の乗り物となる。
たとえば、体は6点式のシートベルトでバケットシートへと拘束されて自由は利かない。3500ccクラスから1600ccクラスまで、性能の異なる4クラスが混走することから、最も下位のクラスに位置するマシンを走らせる私は常に背後に気を配らねばならないにもかかわらず、後方の確認もままならないのだ(そのためにミラー類があるのだが、バイクのレースの経験しか無い私は、「レース中にミラーを見る」という発想すら持たなかった)。
足袋のようなシューズも、二輪のそれとは比較にならないほど薄く、柔らかいスーツやグローブも・・・同じ「レースをする」という行為に対して、二輪と四輪ではこうも違うものなのかと驚いている間に初めての走行は終わってしまった。
問題はまだあった。そんな状態で11月に乗り込んだのが、「スーパー耐久」の最終戦だったことだ。
各クラスのチャンピオンが懸かった重要な一戦であり、ドライバーたちの間には、ヒリヒリするような緊張感が立ちこめていた。そこに突然、私たちのような、よちよち歩きと言ってもいいようなドライバーが乗り込んだのだ。予選は山本さんのアタックにより通過を果たしたものの、タイヤを(耐久レースにもかかわらず)メタメタに痛めつけながら限界まで攻めた私のタイムは、周囲のドライバーから5秒も6秒も遅いものだった。
いや、遅いだけならばまだよい。クルマのコントロールができないことで、チャンピオン争いをしているクルマに絡んでしまったら・・・そう考えれば、彼らもたまったものではなかったに違いない。
アメリカで強烈な「アウェイ」状態を体験し続けてきた私だったが、もしかするとこの状況はアメリカ以上だったかもしれない。言葉を交わそうと思えば交わせるのに、同じ「レース」の世界であるのに・・・いや、同じ「レース」の世界であり、自らが場に与えている負の影響を理解しているがゆえに、コミュニケーションを取ることができない。
参戦を決めたとき、「畑違いとは言え、日本のレースなのだからなんとかなるだろう」という気持ちが無かったか? 日本のレーシングシーンに対するリスペクトが足りなくはなかったか? 自らに問えば問うほど、ドライバーたちからの無言の抗議が心に突き刺さるのだった。
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