体操の魅力を広く伝えるため
選手・指導者・経営者として邁進する
体操選手 杉原愛子
2016年、高校2年生のときに体操日本代表としてリオデジャネイロオリンピックに出場し、団体4位入賞を果たした杉原愛子さん。2大会連続で東京オリンピックに出場した後、一度選手として一線を退いた。その後、2023年に現役復帰を果たした理由は「一度離れたからこそ体操の楽しさや魅力を再確認できた」からだと言う。その魅力を広く伝えるために、現役選手としてだけでなく指導者としても活動するほか、株式会社TRyAS(トライアス)の代表として体操の普及活動に勤しむ杉原さんに、仕事の楽しみ方をうかがった。
観客の声が力になっている
始めてオリンピックに出場したとき、私は16歳でした。当時は体操が仕事という意識はあまり持っていなかったと思います。選手としてオリンピックへの出場が夢だったのでそれに向かって人生をかけて頑張ろうと思っていました。リオデジャネイロオリンピックの次は、自国開催の東京オリンピックがありましたから、またそれを目標に進んでいこうという気持ちでしたね。
オリンピックには、ほかの大会にはない独特な雰囲気やプレッシャーがあります。選手村にはさまざまな国の文化の違う選手が集まり、その全員が「絶対に金メダルを獲る」という目をしているんです。その雰囲気にのまれないことが大切ですね。リオデジャネイロオリンピックのときは何もわからず、怖いもの知らずの状態でした。今ふり返ると、それが良かったのかと思います。チームメイトたちも、もともとジュニアの頃から知っていて普段から仲の良い人ばかりで良いチームワークを築けていました。
団体戦の決勝は、最終種目が私の担当する平均台でした。そのときのことはよく覚えていますね。すごく調子が良くてゾーンに入った感覚がありました。リオはサンバの盛んな国で、オリンピックともなると応援はお祭り騒ぎでした。そんな中で観客の方々の声は聞こえているのに、自分が真っ白な空間の中一人で演技をしているような感覚になり、ゾーンに入ったんだとわかりました。私は応援の声がたくさん聞こえたほうが力を発揮できるタイプなので、リオの環境も良かったのかもしれません(笑)。
そういった意味でいうと、東京オリンピックは真逆の環境でした。新型コロナウイルスの影響で無観客でしたからね。そんな中でも開催してくれたことには本当に感謝しています。ただ、やっぱり観客の方々の声が聞こえないのは寂しかったですね。それに、自国開催ということでより多くの方が注目してくださっていたので、今まで感じたことのないプレッシャーもありました。東京オリンピックでは、その重責と戦うのが大変だった記憶があります。