プロフィール 1956年神奈川県生まれ。多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科在学中に、映像演出研究会に所属。8ミリ映画の制作に没頭し、監督から出演まで広く活躍。1978年、大学在学中ながら劇団 「青年座」 に入団。演劇活動を続けながら、1977年、『ぎんざNOW!』 (TBS)の 「素人コメディアン道場」 で第18代チャンピオンに輝くと、その後、『TVジョッキー』 (日本テレビ系) の素人参加コーナーで一気に注目され、「笑いながら怒る人」 の芸は全国区で衝撃を与えた。1983年、『ザ・テレビ演芸』 (テレビ朝日) の 「飛び出せ!笑いのニュースター」 に出場、グランドチャンピオンとなり、人気を不動のものに。1984年 『元祖おじゃまんが山田くん』 (フジテレビ) でドラマデビューをした他、1985年には大竹まこと、きたろう、斉木しげる、いとうせいこう、宮沢章夫らと演劇ユニット 「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」 を結成。青年座退団後は劇作家の岩松了とともに 「竹中直人の会」 を開始し、映画、ドラマ、舞台と幅広く活動。1991年に 『無能の人』 で監督デビューを果たした。8月8日-31日、ル・テアトル銀座にて、劇団EXILE 『レッドクリフ -愛-』 に出演予定。
竹中直人という人物をどのように言い表すとその本質が突けるのか。俳優としての活躍はもちろん、映画監督、ミュージシャン、そして大学での客員教授まで、竹中氏の活躍するフィールドは幅広い。肩書きではくくれない、まさに分野としての 「竹中直人」 なのだ。90年代後半からスペシャリティの時代に入り、何でもこなせる人よりも一つの分野に特化した人材が重宝されてきた。しかし、ゼロ年代が終わりを告げ、いまや、スペシャリティを保ちながら、かつマルチアビリティの底上げが必須になった。つまり、竹中氏のようにあまねくフィールドで能力を発揮しつつ、それぞれで突出した存在感を放てる人材が、まさに時代の急先鋒になっているのだ。そうしたオンリーワン性を輝かせ、保ち続けるためには、高いクリエイティビティとモチベーションが必要になってくる。しかし、「どうしたら竹中さんのように広く深く活躍できるのですか?」 などという野暮な質問は無意味だろう。竹中氏の生き方、モチベーションの在り方をヒントにして、「創造的な仕事とは何か?」 というテーマのエッセンスを探りたい。まずは、若き日の話から振り返っていただこう。
優勝賞金30万円の運命分岐点
高校3年生の頃にね、突然思ったんです。「美大を受けたいな」 って。それから二浪して多摩美術大学に入学したんです。最初は絵を描きたいと思っていたはずが、映像・演出研究会というクラブに入って8ミリ映画を撮っているうちに思いが変わっていったんですね。「映画に携わる仕事がしたい」 とね。結局卒業後は劇団の研究生になりました。でも研究費が高かったんだ・・・・・・ 1年で30万円。絶対無理だなと思っていたときに 『3分間で人を笑わせたら賞金30万円』 という素人参加型の企画があって。3分で人を笑わせる芸を競い合うもので、それに優勝して30万円をゲット。無事、劇団の研究生に(笑)。 そしていつの間にか劇団員になっていました。
しかし、劇団に入ったら入ったで、すぐに仕事があるわけじゃない。稽古場の掃除やお茶くみと、そんな雑用ばかりなんです。それが嫌でね。バイトの日々で、サボってばっかりだったな。そんなある日、『ある馬の物語』 という学校公演のミュージカルに出演することになったんです。縞々のピチピチタイツを穿いて、パンタロンでタンクトップで黄色いスカーフ巻いて、歌って踊るんです。もうほんとに恥ずかしかった。
当時は風呂付きのアパートに住むのが夢でね(笑)。 夏とか、バイトから帰ってくるのが遅いので銭湯は閉まってて風呂に入れないんです。ちっちゃな台所で必死に体洗ってましたね。汲み取り式のトイレでね。梅雨の時期なんかはもう部屋中くさかったナァ・・・・・・ うわァ、懐つかしすぎるなぁ・・・(笑)。