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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 
2004年に行われたアテネオリンピックでは日本代表に選ばれ、銅メダルを獲得した三浦さん。当時感じた重圧は異質なものだったと語ってくれた。
 
 

日の丸の重みを感じる

 
アテネオリンピックでは、全勝で金メダルを獲得することが“至上命令”のようなものでした。そんな中で、自分が最初に登板したのは予選リーグ第1戦のイタリア戦。2番手として7回のマウンドに上がりました。ヨーロッパでは野球はあまり盛んではなく、観客は少なかったですね。日本から応援に来てくれた方が目立つ以外、スタンドはガラガラでした。
 
自分が登板したのは、このイニングを0点で抑えればコールド勝ちという場面。おそらく、自宅のテレビでその場面を見ていたら「この点差なら、余裕だよな」と思っていたでしょう。でも、いざマウンドに上がったら、とてつもない緊張に襲われたんです。「これが、日の丸の重みか」と改めて実感しました。どれだけ観客が少なくても、またどれだけリードしていても常にプレッシャーを感じていましたね。
 
残念ながら、アテネオリンピックは準決勝で敗北を喫してしまいました。宿舎で、チームメイト全員がうなだれていましたね。でも、そんな中キャプテンを務めていたヤクルトの宮本慎也さんが「もう一戦残っているから、全力で戦い抜こう」と鼓舞してくれたんです。そうして全員が再び士気を高めて、銅メダルを日本に持ち帰ることができました。
 
オリンピックには独特の重圧がありましたが、それはペナントレースも日本選手権シリーズも同じです。ペナントレースと日本シリーズ、オリンピックでどれが大変だったかと聞かれたら、「どれも大変だった」としか言えません。ただ、日の丸を背負うという経験はオリンピックでしかできないもの。本当に貴重な経験をさせていただいたと思っています。
 
 
常に勝ち負けの決まる勝負の世界で生きてきた三浦さん。チームの抑えを担う投手として、責任を持ってマウンドに上がっていたという。その“責任”とは何なのだろうか。
 
 

中途半端な気持ちではマウンドに上がれない

 
現役の頃には、よく記者の方々に「大事な初戦ですね」とか「大事な三連戦ですね」と聞かれていました。でも、自分の考えとしては、全部の試合が同じように大事なんです。チームが優勝するには、どの試合だって落としたくない。そういった気持ちを持ってマウンドに上がっていました。若い頃は違いましたけどね(笑)。
 
先ほども話したように、若い頃は「俺に投げさせてくれ」と思うばかりで、チームの勝敗は二の次でした。ただ、横浜に在籍し続けているうちに、チーム内での立場や役割も変わってきます。そうすると、だんだん周りのことが見えるようになったんです。先発としてマウンドに立って勝つ。自分に求められていることを考えるようになってからは、それに向けてしっかりと準備したうえでマウンドに上がらないといけないと思えました。
 
だから、勝てないのならマウンドに立つべきではないとずっと思っていたんです。自分が引退した理由は単純で、「勝てなくなったから」。勝てるのならずっと現役を続けたかったですけど、できないんだから仕方ない。マウンドというのは、そんな中途半端な状態で上がっていい場所ではないですからね。
 
横浜の先発として勝てなくなっても、求めてくれている他のチームがあるのならば移籍することもできたと思います。でも、それでは“三浦大輔”っぽくないでしょう? 自分は、FA宣言をしたものの横浜に残ると決めたとき、「このまま横浜で終わるのが筋だ」と思ったんです。