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経営者インタビューEXECUTIVE INTERVIEW

知的障がい者と共に歩み奥多摩に根づいて30年
社会福祉法人ふるさと福祉会/東京多摩学園 園長 山下卓

 
プロフィール 東京都出身。弟が生後間もなく最重度の知的障がいを抱え、両親の子育ての苦労を目の当たりにして育つ。大学卒業後は銀行に就職。その後、両親と有志が起ち上げた障がい者支援施設、(福)ふるさと福祉会を手伝うために退職した。施設運営の安定化と拡大を試み、椎茸栽培やカフェ開業など、関係者と一般人の交流場かつ事業としても成功を収める。現在は次のステップへと力を注ぐ。【ホームページ
 
 
 
これまで障がい者に対し厳しい時代があったことは否めない。障がい者支援施設「東京多摩学園」の設立者たちも、都内での設置に奮闘したが反対が多く、都下山中の奥多摩での設立となったこともそれを物語っている。地域清掃や、椎茸栽培、カフェ運営などの試行錯誤を続けて30年――。その結果、地域に愛され、例年イベントには600人以上もの人が集まるまでに周囲の人々の意識が変わった。しかし「まだ足りない」と山下卓園長は語る。
 
 
 

両親の背中を見て障がい者施設の運営に

 
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インタビュアー 川上麻衣子(女優)
川上 障がい者支援施設「東京多摩学園」の運営をされている、社会福祉法人ふるさと福祉会さん。一般的な“東京”のイメージとは相反する、奥多摩の壮大な大自然の中に根づき、今年2018年3月には設立30周年の節目を迎えたそうですね。まずは東京多摩学園設立の成り立ちから教えていただけますか?
 
山下 私には弟がいまして、生後2ヶ月で最重度の知的障がい児になりました。そして弟が15歳のとき、当時公務員だった父はある方の「この子たちは親が頑張らないと生きていけない」という言葉と出合い、母に相談し、支援施設の設立を決意したそうです。そこから、同じ境遇の保護者有志たちと共に設立に動き始めました。
 
川上 設立までは、スムーズに進んだのでしょうか。
 
山下 いいえ、苦難の連続です(笑)。当時は知的障がいを持つ子どものための学校も少なく、スタート時は資金も乏しく運営はままならず、1992年に父は公務員を辞めて奥多摩へ転居し再建に乗り出しました。経営の安定化が喫緊の課題で、誰かがやらなければならない切羽詰まった状況でしたね。
 
川上 30年前となると、今以上に偏見も強かったのではとお察しします。お父様のご決断も相当な覚悟が必要だったでしょうね。奥多摩の地は、どのように選ばれたのですか?
 
山下 実は、都内設立に反対意見が多く、奥多摩の山中に決まったという背景があります。私は大学を卒業後、銀行に勤めたものの、両親の走り回る姿を見て何かしら手助けしたい気持ちが強くなり、銀行を退職し参加しました。2003年の法改正と大幅な制度変更など、社会情勢の変化にも順応しながら、新しい取り組みにも挑戦しつつ今に至ります。