BCPへの関心のきっかけを作った阪神・淡路大震災
1995年の阪神・淡路大震災から15年経った。今年、震災が発生した日の前日に当たる1月16日、フジ・関西テレビ系で 「神戸新聞の7日間 ~命と向き合った被災記者たちの闘い」 が放映され、平均視聴率19.8% (関西地区) をとったという。原作は震災の年の11月に発刊された 「神戸新聞の100日」(神戸新聞社/プレジデント社、角川アソシエ文庫)である。
震災で神戸新聞社は本社も印刷工場も崩壊してしまった。未曾有の災害を前にして、新聞社がやるべきことはたった一つ、それは 「新聞を出すこと」 だった。この本は1300人の社員が瓦礫の中から立ち上がり、新聞を発行し続ける姿を自ら描いたノンフィクションだった。当時、総合月刊誌で書評を書いていた私は、まっさきにこの本を取り上げた記憶がある。
実は、神戸新聞社は、いざというときのために京都新聞社と災害協定を結んでいた。そのため、震災の日、編集者は京都新聞社に入り、当日の夕刊の印刷原版を作らせてもらうことができた。原盤はバイク青年によって神戸市郊外の印刷工場まで運ばれ、わずか4頁だが、夕刊の輪転機が回り始めた。神戸新聞社の社屋は原型をとどめていたが全壊と判定され、社員は全員撤去。空きビルの1室を借りて、臨時編集局を開設することになる。
「神戸新聞の7日間」 の映像を眺めながら、私は 「ああ、これこそBCP(事業継続計画)の取り組みそのものではないか」 と思った。原作を読んだ当時には浮かんでくることのなかった発想だった。15年前にはBCPなどという言葉は存在しなかったから当り前なのだが、神戸新聞社は 「新聞発行が使命」 と決めて、京都新聞社といざというときの協定を結んでいた。いまでいうバックオフィスにあたる。その夜のテレビ放送で、「神戸新聞の闘い」 は、実はBCPの取り組みそのものだったという新しい発見ができたのも自分ながら面白かった。
震災から15年、多大な犠牲を払いながら、その後、事業を再開できたところもあり、廃業を余儀なくされた企業も多かった。この震災を教訓とし、2001年9月11日の 「同時多発テロ」 を経て、日本でもBCPに対する関心が徐々に高まってくることになる。
BCP伝説を作った「米同時多発テロ事件」のメリルリンチ
BCPにまつわる伝説としていまだに語り継がれているものとして、同時多発テロ事件のときのメリルリンチ証券の事例がある。「9・11」 は、4機の民間航空機がテロリストにハイジャックされ、NY・マンハッタンの世界貿易センタービル (WTC) の北タワーと南タワーに突入した事件だ。
米国の大手証券メリルリンチでは、1機目の航空機が北タワーに突っ込んだ7分後に災害対策本部が立ち上がり、約20分後には9000人の従業員をビルから避難させた。同時に、コンファレンスコールという他の支店と常時接続した回線をつなぎ、業務連絡が厳密に行われた。翌日にはCEO名義で 「当社は問題なく業務を行っている」 というメッセージを顧客宛に配信している。各部署や全支店とを結ぶ災害対策本部のスタッフは総勢180名。BCPはハリケーンを想定したものだと言われているが、24時間常時接続の電話回線で、判断力を持っている人間とのコンタクトがスムーズに行われていたことが迅速な対応につながったという。
そのメリルリンチも、「9・11」では生き残ったが、2007年のサブプライムショックで巨額の損失を計上して赤字に転落。2009年1月、バンク・オブ・アメリカによって買収されてしまったのは皮肉な話である。事業継続を脅かすさまざまなリスクがあるが、サブプライムローンから端を発し、世界同時株安、金融恐慌に至る道筋で適切な危機管理能力が発揮できなかったからなのだろうか。
企業が取り組むべき事業継続計画とは 古俣愼吾 BCP