人材から人財に人を磨き上げる 〈前編〉
良き師・良き友と出会い
弱い自分を克服する
選択肢とは情報のことで、自分の経験則の情報では限りがある。自分の経験則や経験知の情報をすべてだと解釈しているようでは実践に誤りが生まれる。
実は、それが、頭の中を空っぽにしているようでいて、していない証拠である。それが「我」というもので、潜在意識下の滓、つまりヘドロである。
「我」 に振り回されるようでは、人間の修養が足らないということだ。素直になって、人の話に純粋に耳を傾けられる心を修養して実践する。その実践の裏側には、人が応援してくれる基があり、いつの間にか、理解者と応援者が増えていることに気づく。
自分ひとりで生きているのではないということの自覚、それが覚り=悟りに通じる。常人の理解を超えているところにモノゴトの真理があり、「いつの間にか」 ということが大切で、無意識のうちに周囲の人に応援をしてもらっていたり、良い影響を受けたり、また書物などによって、自らが自らに、知らないあいだに気づくところに真理がある。
たとえば、人との出会いで、知らないあいだに自らの変化に気づくことがある。つまりは、化学反応を起こさせるような触媒になってくれる書物や人が必要であり、特に、良友や良き師に出会えた人は成長するようだ。
この世に生を受けたかぎりにおいて、それぞれの成長に伴って、親兄弟・友人・先輩・先生・上司・同僚と、挙げればキリのないくらいに人との出会いがある。
運命を決するような、良き友、良き師との出会いがほしいものだ。
ところが、である。
良き師に出会っているにもかかわらず 「ボヤーッ」 としていれば、また、ナンの気づきもないようでは目の前のチャンスは逃げてしまう。
「ニワトリが先か卵が先か」 の論争をしても始まらないが、自分を磨いていく中において、良き師との出会いがなければ磨かれることはない。
ダイヤモンドは、ダイヤモンドでなければ磨くことができないのと同じだ。師がダイヤモンドでなければならないし、その良き師の影響で人間形成ができると言ってよい。
また、指導する側も、される側も、そのときの状況によって反転・逆転することがある。たとえ師といえども、教えられる側が師の気がつかないことを言えば、そのことに感心を示して褒める広い心を持っていなければならない。つまりは譲る心がなければ、世の中は成立しないし、人材は真の人財にはなりえないということだ。
その一方において、自分自身との向き合いが大切だ。実は、自分の心の中にダイヤモンドがあり、また、自分がダイヤモンドでなければならない。
ひとことで言えば、強靭なまでの自分を作るということだ。自分にウソをつかない、自分との約束を守って、弱い自分を克服できるかということにつきる。
誰の記憶にもあると思うが、たとえばテストが近づいてくる。今度こそという思いで、念入りにテストのスケジュールを立てるが思い通りにいかない。
「まぁー、明日でいいか」 ということで、このような簡単なことにでも自分に負けてしまう。そして、前日に一夜漬けでテストに望む。それで、良い成績が取れるわけがない。あーあの時に・・・・後悔、先に立たずというわけだ。
自分との簡単な約束ですら克服することができない。
しかしながら、自分に厳しく、自分を超えていくところに人間形成の要諦がある。そういう弱い自分を克服できると、自分の心のなかに核融合作用のようなものが起きるようになる。その核融合作用が自分を強くしてくれる。
一旦、核融合作用がおきると、諦めることなく辛抱して続けることや人が諌めてくれることに謙虚になれて、素直に耳を傾けられる。それを実践することができるようになる。
それを大切にしていれば、かならず自分の命に感謝できる。つまり生きているという命に感謝が芽生える。こういう考え方を続けていると、さらに自分を克服する目標や目的意識が生まれて、自分を第三者の目で、自分を客体として見られるようになる。
それが見えてきたら、人生が自分の想いのままになる。
ところが、このような本物や本質的なことを追求すればするほど、世の中の制度や仕組み・慣習・習慣から取り残されていく。
「清い水に魚は棲まない」 の喩えがあるようにだ。
私は今日、「人財が一流の知的企業を創造する」 と言ってきた。人は一流になるまで、辛抱して続けることを一生の仕事にしなければならない。