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社会 伊東乾の「知の品格」 vol.6 学位の品位はどこに(4) 伊東乾の「知の品格」 作曲家・指揮者/ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

社会
 
 
日本に近代的な「大学」制度が持ち込まれたのは明治維新以降のことで、「大学南校」など初期の過渡的な組織改編を経て、西南戦争が鎮圧された明治十(1877)年、東京に大学がひとつ設立されたのが始めです。東京の大学ですので東京大学と名付けられました。2014年時点で137年の歴史しか持っていない勘定になります。
 
さて、この「大学」という言葉、実は古代中国に起源を持つもので、これは比較的多くの方がご存じの事実ではないでしょうか? 儒教の聖典『四書五経』の「四書」とは「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四つを指すもの。記憶に留めておられる方も少なくないと思います。
 
もっともこの中国古典としての「大学」と「中庸」は、元来『五経』に含まれる「礼記」の章を独立させたものということで「四書五経」とひとまとめにすると、二回登場することになるのだそうです(『五経』は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)。
 
中国古典に登場する由緒正しい漢語を用い、漢籍にも通じた明治初期の知識人に西欧由来の文物、制度を定着させるにあたっては、西周ら明六社の人々の力が大きかったと伝えられます。明治六年に作られたから明六社、いまだ不平士族反乱などのきな臭い1873年ごろのことと思われます。
 
1877年に日本に近代的な大学ができ、1880年代、松方財政などで失敗国家になりかけた日本が体勢を立て直し、憲法を整え議会を発足させ、日清戦争に勝って重工業化を推進し、日露戦争に勝って植民地を得、第一次世界大戦の尻馬に乗るころまで約40年、一世代の多くの人生が過ぎ去って行きました。
 
 

1920年の「学位バブル」

 
さて、第一次世界大戦の終了と前後して、日本の教育は大きな変化を迎えます。
かたや日本海を挟んで大陸ではロシア革命が進行、日本はシベリアに出兵して赤化対策を講じます。内外情勢から米価値上がりを見越した売り惜しみが発生、これが引き金となって「米騒動」の暴動が起きるなど、騒然とした状況下、かつて明治維新を牽引した若者たちは「元勲」の世代となり、とうに還暦を過ぎて世間の堕落を大いに憂いました。
 
この時期に推進されたのが一大教育改革だったのです。この時点まで、日本には大学といえば国立大学だけ、高等学校もナンバースクールと呼ばれる現在は8つの国立大学教養学部等に相当するもの(旧制一高~八高)があるだけでした。これに加えて、新たに「私立大学を設置する」として発布されたのが「大学令」(1918年交付-19年施行)でした。
 
それまで「高校に進学する」というのは、現在なら「偏差値70程度の国立大学に進む」程度に希少なことで、社会的、経済的な意味も全く異なっていました。さらに「大学」進学などはとんでもなく稀なことで「学士さま」は将来を約束されたごく少数の超エリートに過ぎませんでした。「坊ちゃん」を初めとする夏目漱石の小説は気取って嫌味な学士様など、当時の有様を活き活きと描いています。かくいう漱石もまた、そのような学士さまの一人に他なりませんでした。
 
これが「大学令」関連の教育改革で旧制高校は最終的に39まで増えることになります。現在でいえば「国立大学進学」程度の幅まで人数も拡大しました。
 
1920年2月2日、最初の「私立大学」が二つ、日本に誕生します。それが大隈重信創設になる「早稲田大学」と、福沢諭吉創設になる「慶應義塾大学」の二大学に他なりません。
 
私学の雄として「早慶」の二つが取り上げられるのは、実は一番最初に作られた旧制私立大学だったから、という背景があるわけです。これ以降続々と「大学令による大学」が作られて行き、1920年を端境に学士の学位取得者は急速に増加しました。いわば日本近代最初の「学位バブル」がこのとき準備されたと言うことができるでしょう。これはまた「学位の自由化」という側面も持つものでした。
 
 

「学位自由化」と水準の確保

 
明治14(1881)年の政変で下野した佐賀の大隈重信は翌15年に「東京専門学校」を設立します。やがてスタートすることが期待されていた「立憲政治」を担う若者を育てるためで、決してSTAP細胞詐欺師を跋扈させるためではありません。
 
創設から20年を超した1902年、将来的に大学への昇格を目指して東京専門学校は「早稲田大学」の名称を使用し始めますが、この時点では許可されたニックネームであって、法的には早稲田はいまだ大学ではありませんでした。正規の大学昇格は先に触れた通り1920年になってからのこと、大隈は1922年に没していますので、人生の最後に早稲田の大学昇格を見届けています。
 
いっぽう、慶應義塾はその名の通り「義塾」であって安政年間に旧中津藩邸内の蘭学塾としてスタート、明治初期は旧制専門学校として「大学部」などが設けられましたが、正規の大学昇格は1920年の「大学令」からで、早稲田と並んで2014年時点で94年というのが正規の大学としての歴史になります。
 
この「大学令」期の変革にはもう一つ、決定的に重要な変化と意味がありました。それは、従来は文部大臣が授与するとされていた「博士号」が、各大学の授与へと移行されたのです。当初は帝国大学の大学院に限られていましたが、戦後は私学でも独自の「博士号」などを出せるようになっていった。つまり、従来はフランスのように「国家資格」であった「博士」などの学位が、悪く言えばなし崩し的に、基準が不明確な形で『自由化』されてしまった原点がここにあります。
 
早稲田大学は、小保方晴子学位請求論文に見られるような悪質なコピーペーストに対して断固たる処分を本来は求められるはずですが、それもまた早稲田という一私学の独自基準によるもので、国の認めた共通水準などは存在しません。内外の研究不正事例を見るなら、こうしたケースでは学位剥奪ならびに向こう何年間か、一定の学術的な資格停止などが妥当とされるはずですが、一体日本で、また早稲田大学大学院で、どのような『独自基準』による判断が下されるか、は、その後の学術機関としての自らの水準をも決定するものとして、注目しない訳には行きません。
 
(この項つづく)
 
 
 
 
 伊東乾の「知の品格」
vol.6 学位の品位はどこに(4) 

  執筆者プロフィール  

伊東乾 Ken Ito

作曲家・指揮者/ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督

  経 歴  

1965年東京生まれ。松村禎三、松平頼則、高橋悠治、L.バーンスタイン、P.ブーレーズらに師事。東京大学理学部物理学科卒 業、同総合文化研究科博士課程修了。2000年より東京大学大学院情報学環助教授、07年より同准教授、慶應義塾大学、東京藝術大学などでも後 進の指導に当たる。西欧音楽の中心的課題に先端技術を駆使して取り組み、バイロイト祝祭劇場(ドイツ連邦共和国)テアトロコロン劇場(ア ルゼンチン共和国)などとのコラボレーション、国内では東大寺修二会(お水取り)のダイナミクス解明や真宗大谷派との雅楽法要創出などの 課題に取り組む。確固たる基礎に基づくオリジナルな演奏・創作活動を国際的に推進。06年『さよなら、サイレント・ネイビー 地下鉄に乗っ た同級生』(集英社)で第4回開高健ノンフィクション賞受賞後は音楽以外の著書も発表。アフリカの高校生への科学・音楽教育プロジェクトな ど大きな反響を呼んでいる。新刊に『しなやかに心をつよくする音楽家の27の方法』(晶文社)他の著書に『知識・構造化ミッション』(日経 BP)、『反骨のコツ』(団藤重光との共著、朝日新聞出版)、『指揮者の仕事術』(光文社新書)』など多数。

 
(2014.7.6)
 
 
 

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