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今回の本に関しては筆者はもしかしたら適切な評者ではないかもしれません。元になった連載コラムに担当編集として関わった当事者だからです。あれから約2年。当時第一読者として毎月拝読していた原稿がこのように大幅加筆され日の目を見たことを嬉しく思うとともに、客観性公平性を担保するうえでは自分より適格な評者がいるだろうに、と後ろ指をやんわりと背中に感じつつ、今回の評は書くことにします。
 
まずは大急ぎでタイトルへの注釈から。『NOロジック思考』とは、映画館で本編上映前に流れる「NO MORE映画泥棒」のような「禁止」の意味ではありません。ロジック思考にNOを突きつける(=否定する)のではなく、non-logicalな思考もお勧めですよ、という意味です。ここは大事な点なので本文から著者自身が注意喚起している箇所を引用します。
 
「勘違いして欲しくないことがあります。ロジカルシンキングを、いらないと言っているわけではありません。ロジカルシンキングを偏重しすぎると息詰まるということです。ロジカルシンキング、ラテラルシンキングの両方をバランスよく使えば、困難な問題も意外な突破口を見つけられて解決できるでしょう。」(第2章 ロジカルシンキングとラテラルシンキング p115、116)
 
ここで言うラテラルシンキングこそ、本書で紹介されるnon-logicalな思考です。もともとは1960年代にイギリスの心理学者のエドワード・デボノ博士が提唱した思考法で、日本では1966年に千葉大学の多湖輝教授の『頭の体操』(光文社)がベストセラーになったことで広まりました。本書の著者の木村氏自身は1980年代半ばにデボノ博士の『水平思考の世界』を読んで衝撃を受け、以来、ラテラルシンキング(水平思考)の研究者として、主に企業研修の分野でビジネスパーソンへの実践指導を続けています。本書はその木村氏の最新作。ロジカル思考(だけ)では行き詰ってしまう現代の閉塞状況を、ラテラル思考で打破しよう! という趣旨の啓発書です。
 
ただし、啓発書と呼ぶには世にも奇妙な内容になっています。「ラテラル思考ならこうする」という適用例がたくさん書かれているだけで(例えば第1章「日本を騒がせた“あの事件”、ラテラルシンキングならこうする!」)、「ラテラル思考はこういう思考法です」と論理的に説明した記述がないからです。「ラテラル思考はロジカル思考の対極にあるから論理的説明に適さない」というのが連載当時から著者が言うその理由ですが、そのままでは不安で本書に入っていけない読者のために、昨年7月発行の著者の前作から、やや説明的に書かれた箇所を紹介します。
 
「ラテラル思考は水平思考とも呼ばれます。ロジカル思考が〔分類・分析型〕だとしたら、ラテラル思考は〔全体・把握型〕です。ロジカル思考が論理(ロジック)で思考を展開するとしたら、ラテラル思考は直観やひらめきも含めたイメージをも駆使して思考します。ロジカル思考が直列処理型だとしたらラテラル思考は並列処理型です。」(『「わか者、ばか者、よそ者」はいちばん役に立つ AI時代の創造的思考』第1章 創造的思考とは何か p35)
 
これでもまだ対比的な説明にとどまりますが、多少でも心理学をかじったことのある人は「ああ、ゲシュタルト的に知覚して思考することね」とか、仏教の素養のある人なら「頓悟のようなものかな」とかいうふうに、それぞれの得意分野に引き寄せてわかってもらえるでしょう。
 
ちなみに、本書で著者が地の文といわず演習の箇所といわず随所に繰り出すラテラルシンキングの適用例を、「ただのトンチじゃん!」と馬鹿にしてはいけません。むしろそう思ったときこそ、「トンチ」の由来である仏教語本来の「頓悟の智慧」にまでさかのぼって、「じゃあ頓悟ってどういうものなのかな」と勉強してみるチャンスです。そこからラテラルシンキングへの理解が深まります。もとい、広がります。
 
ちなみに評者自身は、初めて著者と連載の企画を打合せてラテラルシンキングの説明を受けた際に、フランツ・カフカの短編「変種」を思い出しました。有名な「変身」とは別の、「雑種」と訳されることもある作品です。「私は奇妙な動物を所有している、半分猫で、半分羊である。」から始まる、見開き1ページ半足らずの掌編ですが、そこでのワンシーンがいかにもラテラルシンキング的だからです。少し長いですが引用します。
 
「(日曜日の午前、近所の子供たちがこの動物を膝に抱いた主人公をとり巻いて)そこで世にも奇妙な質問がつぎつぎ発せられる、なんぴとも返答できないような質問だ、――どうしてたった一匹だけこんな動物がいるのか、どうして私だけがこれを持っているのか、以前にもこういう動物がいたかどうか、これが死んだあとはどうなるか、これはひとりで淋しくないか、どうして子供がないのか、何という名前か、等々である。/私は返答の労をとらない、その代り、なんらの説明なく、私の所有しているものを黙って見せるだけで私は満足している。ときには子供たちは猫をつれてやってくる。一度なんか、羊を二匹つれてきたこともあった。しかし子供たちの期待に反して、なんら再認の挨拶をするような場面は演ぜられなかった。動物たちは動物の眼で互いに静かに眺め合い、あきらかに彼らの存在を神聖なる事実として互いに受け取っただけである。」(長谷川四郎訳『カフカ傑作短編集』福武文庫 p154)
 
「黙って見せる」主人公もですが、もっとラテラルシンキング的なのは「ときには子供たちは猫をつれてやってくる。一度なんか、羊を二匹つれてきたこともあった」の部分です。子どもたちは猫や羊を連れてはきますが、それがどういうことかはわかっていない。ただ“何か起こるんじゃないか”と期待しているだけです。本書77ページ9行目に「極論すれば、ロジカルシンキングの極意は分類することにあるのです」とありますが、ここでの子どもたちは〈分類〉をはなから笑い飛ばしているかのようです。そして動物たちは、つまり「世界」は、常にすでに、人間のロゴスに分節される以前の神聖なる事実としてそこにある。
 
学生時代に読んで“なんて痛快で快活な作品なんだ!”と思ったときの気分を今でも思い出せますが、ラテラルシンキングにもそういうところがあります。啓発書のテイをとりつつ、実は痛快な笑いの書。あるいは、笑いの書でありながら、啓発に誘う書。そう思って読むと良さそうですよ。
 
(ライター 筒井秀礼)
『NOロジック思考 論理的な考え方では、もはやこの時代に通用しない!』
著者 木村尚義
株式会社KKベストセラーズ
2019/2/10 初版第一刷発行
ISBN 9784584138939
価格 本体1400円
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(2019.3.13)
 
 
 

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