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経営者インタビューEXECUTIVE INTERVIEW

毛細血管のように大切な
配管で船の安全を守る!

 

16年土木を続け、36歳にして造船に挑む

 
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宍戸 船舶関連の道に進まれたということは、やはり海沿いの出身ですか?
 
竹内 ええ、ミカンとじゃこ天の街で知られる愛媛県八幡浜市の出身です。
 
宍戸 私の妻も愛媛出身で、そのご縁でローカル局の番組に出演するなど、私も愛媛とは何かと縁があるんですよ。そういえば、妻の父が有名な製紙会社の商船で船長を務めていたそうです。
 
竹内 そうですか! 実は私の叔父もその会社の船に乗っていたんですよ。
 
宍戸 思わぬ共通点ですね(笑)。ということは、もともと造船業もわりと身近な存在だったのですか?
 
竹内 そうでもなくて、社会人一歩目は技術者として原子力発電所に就職しました。ただ、その仕事が本当にやりたかったわけでもなかったんです。そのため、そこを1年で退社し、土木業に転職しました。高速道路で土砂崩れが起きないようにするための、法面という工事を行っていたんです。
 
宍戸 それもまた今のお仕事と同じく、大規模なものづくりですね。竹内社長はデスクワークより体を動かすのがお好きなんでしょう(笑)。
 
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竹内 そうですね(笑)。また、今でも恩師として尊敬する先輩の存在も大きかったです。その方と会社を立ち上げて、トータルで16年ほど土木業をしていました。しかし、国や自治体が公共事業をセーブするようになり、仕事が減少しましてね。苦渋の決断で事業を縮小することになり、私も会社を離れることになりました。それで四国から横浜に移り、造船の業界に入ったんです。
 
宍戸 なぜ慣れ親しんだ土木業ではなく、また別の業界に入ったのか気になりますね。
 
竹内 まったく知らない世界に飛び込もうと考えました。ゼロからスタートする世界で自分がどれだけできるか試したかったんですよ。とはいえ、その時点で36歳でしたから、最初は苦労も多かったですけどね。地元に妻と子どもを残して半年間、寮で生活した期間は本当に辛かったですよ。
 
宍戸 その苦労を耐え忍んだからこそ、今があるのでしょう。当時の思い切った決断は、間違いではなかったと思いますよ。