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今年7月23日、東京都内の最高気温が、観測史上初めて40℃を超えました。再来年の東京オリンピックは7月24日から8月9日が開催日。それを踏まえつつ、第5章の引用から書評を始めます。
 
「中国が自国の利益確保のために絶対に譲れない、妥協できない案件を「革新的利益」と表現することがある。組織委(評者注;東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会)が絶対に追及して欲しくない「革新的利益」とは、
① 行政が外出を控えるよう警報を出す程の、猛暑下における五輪開催の是非
② 10万人以上の無償ボランティアの是非
の2点である。」
(第5章「なぜやりがい搾取が報道されないのか」143,144ページより。一部中略)
 
本書の論点はつづめて言えばこの2つ。そして引用から推測できる通り、文章の筆致あるいは全体のトーンとしては、組織委への対立であり、批判です。正直、あまり気分よく読める本ではない。「悪口が多くてイヤ」と感じる人もいると思います。
 
ただ、評者の理解ではそこが大事です。この本を気持ちよく読める人、読んで高揚する人、溜飲が下がった気がしてスカッとする人というのは、何かしら溜飲を下げたい別のものを本書と関係なく持っているのではないか。その意味で、読者には不快感に踏みとどまったまま読み切れるかどうかが問われそうです。
 
だからでしょうか、「おわりに」に入ったら不快感がなくなりました。誰かへの批判から、ボランティアの募集対象になる私たち自身への問いかけに、内容が変わるからです。本書を手に取る人はこの「おわりに」と巻末のビデオジャーナリスト白石草(しらいしはじめ)氏との対談も全部読むべき。それではじめて公正な評価ができます。
 
そのうえで、著者の指摘によって①②の問題点とそうなる理由を知れば、なるほどこれは・・・。開催時期に関し、前回1964年の大会では自ら真夏の開催は不向きとしていたのに、今回は何も言わなかったらしいこと。国際オリンピック委員会(IOC)も不向きを承知だったのではないかと思えること。そうなる原因が1984年のロス五輪にさかのぼれること。それまでにすでにオリンピックそのものが行き詰っていたこと。今回組織委がボランティアでまかなおうとしている仕事は有償労働にされるべきではないかということ。有償にできるぐらいの協賛金は集まっているはずだということ。しかしそれらの意見なり主張なりが大新聞をはじめとするメディア・スクラムのせいで一般の議論に上らなくされていること等が、繰り返し言及されます。
 
思うに、本書が読んでいてあまり気分のよいものでないのは、こういった批判に対し組織委とメディアがまともに向き合わないからです。それで苛立つぶんどうしても、時々口調が皮肉や嫌味っぽくなる。著者はそのことを重々自覚していると思います。それでも声をあげずにいられないのは、組織委によるボランティアの扱いが、市民の善意を逆手にとって「オリンピック貴族たち」の腹を肥やすものにしか思えないから。著者を突き動かすのは義憤です。その意味で、本書はやはり、真摯なジャーナリズムの書だと思います。
 
組織委の反応が端的にわかるエピソードが212ページにあります。以下引用。
 
「本間 以前ある雑誌にオリンピックに関する記事を書くことになって、その編集部から組織委員会宛に質問状を出してもらったんですよ。「多額の協賛金が集まっているのに、どうしてボランティアは無償なのか」と。/そうしたら、組織委員会の広報部から編集部に電話が入って、質問には答えないまま「おたくの編集部は、取材に来たことないんですか。そんなばかげたことを聞くのはあなたたちくらいですよ」と言われたらしくて。最後は電話越しの怒鳴り合いになって、「そんなことを言うようなら、今後おたくの取材は受けませんから」と脅された、と聞きました。」
 
事実が描写の通りだとしたら、組織委の対応はほとんど生理的な拒絶反応のそれで、まともではありません。なぜこんな対応になるかといえば、彼らをそうさせるものもまた義憤だから。組織委の言い分は「取材に来ればそんな質問をすること自体がいかに野暮で無粋かわかる」ということ。「取材」は「祝祭空間」の意です。つまり「祭りに外から冷や水を差す輩は許さん!」と言っているわけで、これはこれで祭司の義ではあるわけです。
 
しかもタチが悪いことに、ジャーナリズムの義憤は議論に転化できますが、祭りは“空気”です。そもそも議論に馴染まない。対話にならない。さて、この状況をどうやって打破するかですが・・・。
 
一つの考え方ですが、組織委が用意するボランティア――著者が「やりがい搾取」と呼ぶ構図――によらなくても、ボランティアはできるのではないでしょうか。②の論点は結局は言葉の解釈の問題で、ページ88,89のように準備局の広報担当者が「ボランティアだから無償」という程度の認識しかなかったとして、そこを責めても仕方がない。むしろ、本来“Volunteer”の精神とセットになっているはずの、一種の“Citizenship”――市民としての主体性――に訴えてはどうかと思うのです。
 
ある人が東京オリンピックでボランティアをやりたいとして、それがVolunteerであれば、組織委が用意する体制に乗らなくても自分たちでやればいい。団体にしたほうがやりやすければ有志で組織すればいい。なにも組織委に公認されないと五輪で来日する外国人に道案内をしてはいけないわけではありません。また、もっと直接的に会場で携わりたければ、そのときは運営側の指揮体制下に入らないと現場が困るでしょうから、「Volunteerで入りたい。我々の団体は50名だ。これこれの技能がある。ついては今回は有償で、実費と、些少の礼金をメンバーにあげたいからこの額でいかがか」と組織委に申し込みましょう。それじゃNPOと一緒だと言われそうですが、これだって市民の自発的意思に発する立派なVolunteerでしょう。
 
そういった動きを待ったうえで人が足りなければ、組織委は予算を出してイベント運営会社や通訳派遣会社にアルバイトスタッフを発注すればいい。大阪でイベントバイトをしていた頃、2002年の日韓ワールドカップの試合で長居スタジアムの現場に同僚と十数人で入り、場外誘導の学生ボランティアの後方対応役でシーバー(業界語でトランシーバーのこと)を持って詰めていた3日間の経験からも、そう思います。
 
(ライター 筒井秀礼)
『ブラックボランティア』
著者 本間龍
株式会社KADOKAWA
2018/7/10 初版発行
ISBN 9784040821924
価格 本体800円
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(2018.8.22)
 
 
 

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