青年 ええい、偽善だ偽善だ!・・・中略・・・いったい誰に、そんなことができますか!/哲人 まさに共同体感覚の問題について、アドラー本人に向かって同じような質問をした人がいました。このときのアドラーの答えはこうです。「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」。
――第四夜 ふたたび横の関係について より
アドラーが人気である。ただし、最初はなんとなくスティーブン・コビー(『7つの習慣』)やナポレオン・ヒル(『思考は現実化する』)などと同じ“自己啓発系の人”ぐらいに思っていて、調べてみてはじめて、心理学の、それもフロイトやユングと同時代に活躍した古典心理学の三大学派の1人と知って驚く――そんなケースが大半であると思う。そしてそこからの反応は2つに分かれるだろう。あらためて自己啓発と古典心理学のカップリングを違和感なく受け入れる人と、抵抗を感じる人と。いわゆる心理学オタクやアマチュアの心理学研究家などが後者の代表だ。いわく、「自己啓発はスキルであり、心理学とは別に扱うべきだ」と。要は学問のほうが一段高い“縦の関係”で両者を扱いたいのである。しかしアドラー当人は、返答していわく――「そんなことはどちらでもかまわない。目指す目的にかなうなら」。本書を読んでから「アドラー心理学は目的論的」とされる意味を例え話にすれば、きっとこんなふうになるに違いない。
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『嫌われる勇気』はそんなアドラー心理学の概要をわかりやすくまとめた一冊である。2013年末に発売され今年8月で26刷、計80万部を発行したというから、帯文の「この一冊からアドラーブーム!」は決して誇張ではないだろう。著者はアドラー心理学の他に古代ギリシャ哲学が専門の哲学者・岸見一郎氏と、フリーランスライターの古賀史健氏。中身は岸見氏が特に専門とするプラトンが対話形式で著作を書いたのに倣い、冒頭の引用のように、京都在住の「哲人」と、彼のもとを訪れて論戦を挑む「青年」との対話形式で進んでいく。あとがきには、古賀氏が岸見氏の『アドラー心理学入門』と運命的に出会い、10年越しで共著の夢を実らせるまでのエピソードと、「幸福とは何か」については西洋古典哲学で考え抜いてきた反面「どうすれば幸福になれるか」は深く考えてこなかったと自覚した岸見氏が、アドラー心理学の研究と実践を通じ「幸福になる」というテーマに目覚めていったエピソードが書かれている。
本書の人気の理由は3つあると思う。1つは“悩める青年”の成長譚になっていること。著者二人ともが「青年」を自分の似姿と認める、一種の私小説になっているのだ。2つめは哲人による青年のカウンセリング記録になっていること。評者の産業カウンセラーの視点から見ても、内容の展開が〈反発→ラポール成立→クライアントの自己受容→内面の変化→外界への開かれ〉というカウンセリングプロセスの基本に無理なく沿っている。そして3つめが、著者二人の互いに敬い慕う関係が背後にあることだ。爽やかな読後感のうちに一篇の青春文学を読んだ感動を味わえるのは、この点が大きいだろう。
いっぽうで、本書で開陳されるアドラーの心理学の内容――「原因論ではなく目的論」「自他の課題を分離する」「承認欲求は他者に合わせる生き方。それよりも自己価値感を」など――は、社会の“心理学化”ないし“心理術化”が進む現代ではもう様々な形で知られているという意味で、さほど真新しいものではないように思う。承認欲求の自己欺瞞性は境界性人格障害者やメンヘラーたちは百も承知だ。精神科医療では原因論でも目的論でもいいから患者が治癒・寛解するほうが正しいのであって、先の例え話のような心理学オタクと臨床家との間の決定的な差がそこにある。自他の課題の分離は、相手の熱量に感化されて自分が変わる体験や、倫理哲学的な意味合いでの他者への「応答責任」をスポイルしてしまいかねない点で、それだけ読んで我が意を得た気になるのは危険でもある。
そういった物足りなさや危険をカバーするうえでも、「目的論」「課題の分離」「自己価値感」と来て心理学から思想になる「共同体感覚」関連の箇所をしっかり読むべきだ。本書によればアドラーのいう「共同体」とは、家庭や職場、地域社会といった枠組みを越え、国家や人類、動植物や無生物、過去や未来の時間まで含む。つまり「この世界全て」である。自分はその中心に君臨した存在ではなく共同体の一部であり(自己執着の否定)、しかもそこへの所属感(自己価値感)は、共同体への自発的コミット(承認を求めない貢献)を通じ各人で獲得するものである――。共産主義に傾きかねない理想論へ向けて一気に飛躍するこの感じは一抹の不安を覚えなくもないが、アドレリアンたちは意に介さないのは、冒頭に引用した通りである。「理想の高さはそれ自体では危険でも何でもない」というクリアーな課題の分け方に、アドラー心理学が勇気の心理学と評されるゆえんを見た。