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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 
青木さんは20歳という若さで世界水泳の日本代表に選出されるも、怪我によって出場機会は得られなかった。リハビリなどつらい時期が続く中、どのようにモチベーションを保っていたのだろうか。
 
 

日本を背負うプレッシャーを感じた

 
怪我をしたときは、とにかく治すことだけを考えていました。怪我が治った後も、補欠の時期は長かったですね。私はレギュラーとして先輩方と一緒に泳ぎたいし、メダルが欲しい。そして、シンクロを始めた頃からの夢である、オリンピックに出場したいという気持ちでモチベーションを保っていたんです。
 
ただ、北京オリンピックの代表選考会では、落ちると思っていたんです。選出されるのは、補欠を含めて9人。2回ある選考会のうち、一次選考会で私は9位以内に入っていませんでした。選考会にいる選手たちは、もちろん全員が高い技術を持った人たちですから、最終選考会で巻き返すのは難しいと思っていたんです。
 
「日本代表に選ばれなかったら、シンクロは辞めよう」と半ば覚悟もしていたものの、最終選考会で名前を呼んでいただくことができました。でも、嬉しいという気持ちにはなかなかなれませんでしたね。私は、ジュニア時代も含めて、代表メンバーに選ばれて「嬉しい」と思ったことはないんですよ。「やっとスタートラインに立てた」という気持ちと、「自分が代表でいいのか」という不安の方が強かったんです。それに、オリンピックの代表選手となると、日本を背負って競技しなければいけないというプレッシャーも感じました。
 
シンクロは「日本のお家芸」と呼ばれるスポーツです。1996年のアトランタオリンピックから、歴代の先輩方がずっとメダルを取り続けていました。私たちの代でメダル獲得を途切れさせてはいけないという責任感は大きかったですね。メダルを取れなかったら、日本には帰れないのではないかという危機感やプレッシャーを感じながら日々練習に取り組んでいました。
 
しかし結果は5位入賞で、メダルには手が届きませんでした。帰国後、多くの方から「オリンピックに出場したなんてすごい」「世界の5位はすごい」と言っていただく機会がありますが、オリンピックはいわば“メダルを取ってなんぼの世界”です。それに、私の夢はいつの間にか「オリンピックに出場したい」から「オリンピックでメダルを取りたい」に変わっていました。ですから、本当に悔しいの一言ですね。ただ、あのとき私たちが実力のすべてを出し切って泳いだことには間違いはありません。
 
 
シンクロの指導にも携わっている青木さん。自身の選手時代の経験も踏まえて、指導のポイントや楽しさを語ってくれた。
 

指導者になって気付いたこと

 
選手から学ぶことはすごく多いですね。私は練習が嫌いで、それを態度にも出してしまっていました。自分がコーチの立場になってみると「ああ、だからコーチは私に厳しかったんだろうな」と思うこともあります(笑)。
 
選手によって、褒めて伸びるタイプなのか叱られて伸びるタイプなのかは違います。ですから、その選手の個性を見極めて指導、アドバイスするように気を付けていますね。ただ、基本的に私の指導は厳しいと思いますよ。アメばかり与えていてもダメですからね。
 
現役の頃は、競技が終わり、点数が出るまで自分自身が成長しているのかどうか、よくわかりませんでした。もちろんビデオ撮影をして、自分で泳ぎの確認はしますが、リアルタイムに生で見ているわけではありませんからね。点数を見て、自分がどれだけできるようになったのか知るというのが常でした。
 
でも、指導者の立場は、常に選手を客観的に見れますから、選手たちの成長が目に見えてわかります。だからこそ、技術面のどこが足らないのかも的確に教えられるんです。それを繰り返すことで、また成長を助ける。そうやって、日々成長していく選手たちを見られることは楽しいですね。