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誰もやったことがない旅。一人も到達したことのない世界。見たことのない場所。想像することのできない状況。昔から私はいつかそういう旅をしてみたかったのだ。それこそまさにイグジュガルジュグの言う、「人類から遠く離れたところ、はるか遠くの大いなる孤独のなか」であろう。たった一度の人生、そこを目指さずに一体どこに行こうというのか。
――第2章 ノンフィクション海外篇 はるか遠くの大いなる孤独のなか より
 
 
 本書はノンフィクション作家で探検家の角幡唯介氏による書評集。2015年2月に発行され、同年11月に毎日出版文化賞の書評賞を受賞した。知らせを受けて著者はブログで前々回受賞の辻原登氏、前回受賞の立花隆氏の受賞作タイトルと比較しつつ、「学識とは縁遠い、なかには下ネタさえ混ざっている、この“非文化賞的”なウイスキーボンボンみたいなタイトルの本が選ばれるとは・・・」と恐縮しているが、本書は「書評が評者の自伝になりうる」という新たな可能性を書評ジャンルに示した意味で画期的な一冊だと思う。「はじめに」にはこうある。
 
「私の場合、そうした人格的厚みを形成されたのがいくつかの探検行によってだった。探検の経験を通じた目で私は本を読み、その読書が新しい発見をもたらし、その発見が私の思考や経験や感性をさらに数センチ深めてくれた。経験→読書→発見→深化。これが読書と人間の相互作用である。」(p8)
 
 書評者が探検家でなく単にノンフィクション作家であれば、「経験→」の部分は、内容を具体的に理解してリアルな評を書く助けにはなるが、厳密な意味で必須ではないはずだ。それに比べ角幡氏は、例えば「同一状況下における状況と状況のすれ違い」と題した中島京子著『小さいおうち』の評を、「そういえば最近、雪崩で死にそうな目に遭っていない」と書きはじめる。角幡氏には、過去に何度も雪崩で死にそうな目に遭ったことは、この小説を読んで「同一状況下における状況と状況のすれ違い」というテーマを理解(発見→深化)するうえで必須の前提になっている。すると、続く段落の最後で「私はもう少し冬山に登って雪崩に遭うような行動をつづけるべきなのだ」(p50)と書くくだりも、通常のようにレトリックとしてのユーモアで終わらずに、現実の意思として成立してしまう。「それでどうしたか、どうなったか」をルポする必然を生ぜしめつつ、だ。なんと恐ろしい文体だろう。
 
 
 著者にこの文体⇄人格的厚みをもたらした探検の一つが、ヒマラヤ山脈の東の果て、チベットにあるツアンポー大峡谷の単独探検だった。大学探検部時代から思い決めてきたこの「地上最後の地理的空白地帯」に、それから15年近く経った2009年の冬、著者は挑む。詳細はぜひ本書を読んでほしいが、一部だけ抜粋する。
 
 「来る日も来る日も険しい峡谷の藪の中を漕ぎ続け、そのうち目の前に最大の難所である高さ千メートルの灰色の岩壁が姿を現した。‥中略折悪しく、その日から雨が強く降り出した。濡れて黒々とそびえ立つ岩に、世界一ともいわれるツアンポーの激流がものすごい水飛沫をあげてぶつかり唸り狂っていた。もはやこの岩壁を越えられないのは明らかだった。‥中略氷雨は降りやまず、私の身体は芯まで冷え切り、足の感覚は完璧に失われ、少し立ち止まっただけでガタガタと震えが止まらなかった。寒さが耐えがたいものになってきた頃、しかし私は幸運にも雨を完全に避けられる岩室を発見した。しかも近くには焚き火に使えそうな大きな松の倒木もある。これぞ神のおぼしめしとばかりに、私はザックを放り投げ、焚き火を熾してビバークの準備をはじめた。」(表現者の宿業 p39~)
 
 氷雨はいつやむかわからない雪に変わり、峡谷を埋めていく。来た道はすでに戻れず、先の村にたどり着けるかもわからないこの岩室で、著者は1冊だけ持ってきていた文庫本のサマセット・モーム著『月と6ペンス』を読む。食糧を一日300kcalに切り詰め、焚き火の横でそのまま4日間、画家のゴーギャンの一生をベースにしたこの小説が描く表現者の宿業に思いを馳せるうち、著者は自分のツアンポー探検もまた、「死ぬかもしれないとか、そんなことの向こうにある、どっちにしても手をつけなければならない、私の生きることそのものの表現だった」(p47)ことを思い知る。
 
 
 著者の計画通りであれば、このレビューが掲載される2016年1月中旬頃、著者は近年挑んでいるという「北極の極夜の長期放浪」の探検を続けているはずだ。昼も太陽が昇らない極北地帯を、4ヶ月間一人で、GPSなしで、手製の六分儀と星で位置を計算して、そり犬一匹だけで氷原を移動して生きるという探検である。著者はコーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』を読んで極夜の探検に取り憑かれた。ジョーゼフ・キャンベル著『神話の力』、デンマークの探検家クヌド・ラスムッセンの探検記『Across Arctic America』にも導かれたようだ。この『ザ・ロード』の評が、本書が収める書評の最後である。ちなみに本書には「はじめに」はあるが「おわりに」がない。次の書評集にもないだろう。あとがきが付けられないのは氏の文体が必然的に招く帰結である。探検家でない評者は嫉妬するより他ないが、そんな書評、リアルすぎておもしろいに決まっている。
 
(ライター 筒井秀礼) 
 
 
 

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『探検家の日々本々(ひびぼんぼん)』
著者 角幡唯介
株式会社幻冬舎
2015/2/10 第一刷発行
ISBN 9784344027237
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価格 本体1400円

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(2016.1.20)
 
 
 
 
 

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