B+ 仕事を楽しむためのWebマガジン

経営者インタビューEXECUTIVE INTERVIEW

 
glay-s1top.jpg
インタビュアー タージン(タレント)
タージン 兵庫県西宮市の井上歌唱塾さんにお邪魔しています。作曲家・音楽評論家としてもご活躍の井上さんは、83歳で歌手デビューされたそうですね。
 
井上 周囲の皆様の後押しで、幼少からの夢を叶えさせていただきました。メディアに取り上げられ、関西テレビの『となりの人間国宝さん』認定証もいただき、CDのリリースに向けて取り組まねばと思ったのです。
 
タージン 凛としておられて素敵だなぁ。西宮は地元なんですか?
 
井上 はい、西宮生まれです。おぞましい広島原爆投下の前夜に空襲で家が焼かれて、その10日後に終戦・・・。戦後は各地を転々とし、1979年、34年ぶりにようやく西宮に戻ってきました。
 
タージン 大変な時代を歩んでこられたのですね。そんな中で、どのように歌への情熱を育まれたのでしょう。
 
井上 実は5歳のときに母が急死したため伯父の家の養女になり、そこで大事に育てられました。家業のかたわら、実家ではジャンルを問わずレコードを集めており、養家では邦楽を愛好する他、父は長唄を、母は三味線を弾いておりまして。多様な音楽に囲まれて育ったことで、自ずと「ピアニストか歌手になりたい」と夢を見るようになりましたね。
 
タージン 本当に多彩なジャンルに触れてこられたのですね。音楽好きになるのも納得です!
 
glay-s1top.jpg
井上 ところが、軍需工場の強制労働で体調を崩したままだった父が、家業の再興と私の音楽学校入学を前に病死したため母子家庭となり、音楽の道を断念。早く働かねばと決心したのです。愚かな戦争で、誰もが惨禍を被りました。でも、やはり諦めきれず、勤めながらコーラスやバンドでピアノを弾き、また、音楽ボランティアを続けてきたことが、生きる力、学習の場になったのでしょう。
 
タージン やっぱり音楽からは離れられなかったと。そこからどのようにプロの音楽家の道へ進まれたのですか?
 
井上 当時、合唱団の指導者で、私が恩師と仰ぐ岸田耕一先生が、西宮交響楽団や合唱団、文化サークルの創始育成に貢献されていました。事故で障害のある御身で、施設の慰問演奏を続けておられたのです。私もお供し、門前の小僧で指揮法、作曲法、生き方まで学びました。さらに、師の亡き後は遺志も勝手に継がせていただき、震災復興ソング、地域音頭等、次々と作曲してチャリティに提供。その後、請われるままに歌唱塾を立ち上げました。