先ほどから私たちが使っている「身体」も近代になってからつくられた用語です。昔の言葉で言えば「躰、體、軀」のどれも「からだ」と読みます。その言葉が表しているのは、さっきの「足腰のある感じ」がする體です。古の時代では普通だったアベレージの體です。当たり前の生活の中で練られた足腰が基礎としてあって、そこからさらに特殊な武術の軀と技の捉え方が発生しています。
――第四章 古の身体に帰って見える未来 より
雑誌などを見ていて「身体」の語が出てくると、シンタイと読むのかカラダと読むのか、一瞬迷わされる。もちろん、これでカラダと読むことになっている2016年現在の日本の出版業界の慣例は重々承知しており、後はもう迷わずカラダカラダと読み進めてはいくのだが、迷わなければひっかかっていないかといえばまたそれは別の話で、ひっかかる感覚は感覚として尊重すべく、せめて自分の文章ではカラダは「体」、シンタイは「身体」と書くようにしている。慣例どおりカラダに「身体」を対応させてよしとしたくないのは、カナで続けて書いてみて今初めて気付いたのだが、「身体」の語が空だからだ(カラダカラダ)。
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本書は思想家・評論家で武道家の内田樹氏と武術家の光岡英稔氏による対談集。前作『荒天の武学』の続編である。今回の企画の背景には「1年後卒業するまでに担任の先生を殺す」というミッションを負った中学生と先生の日常を描く漫画『暗殺教室』(週刊少年ジャンプ連載中)がある。先生の「殺せんせー」は超絶的身体能力を持つタコに似た特殊生命体。生徒は校内の落ちこぼれを集めた3年E組の生徒たち。光岡氏からこの漫画を素材にとの申し出があった時、内田氏は、自身の35年間の教師体験から「“先生を殺す”というミッションを与えることが劇的な教育効果をもたらす(ことがある)という危険な真理に触れた。これに僕は虚を衝かれました」と語っている。
その危険な真理を共有・再確認しつつ、対談は、古来の技芸における師弟関係のあり方を参照しつつ現代の学校制度をめぐる教育論を展開し、さらに「生存装置としての文化資本」という観点から、武術と、武術的身体=古の身体をめぐる考察へと進んでいく。光岡氏の立ち位置は一貫して「武術がいまの社会になにを提示できるか」だ。対する内田氏には思想家、武道家、教育者と複数の立ち位置があり、終始一貫する光岡氏を前にときどき“らしくない”陳腐な言説を展開してしまい、2人の話が噛みあわない感じになるのは、気のせいだろうか。
内田氏による前書きのラストのエクスキューズはこのあたりを指しているように思われるのだが、読むほうはここからどんな課題を受け取るべきだろう。安保関連法案が成立して朝鮮半島有事も想定される2016年現在、ときどき2人が噛みあわなくなるのは、内田氏個人の事情をこえて、私たち日本人が「やはりあまりにも長く平和で安全な社会で暮らしてきたことの帰結」(p13)の象徴でもあるのではないか?
だとすれば、ここには、「立ち位置はどれぐらい一体化していなければならないか」「そもそも一体化できるのか」「個人の立ち位置は同時に複数であってはいけないのか」といった、民族も文化も違う人々が融和して生きていく時の本質的で実際的なテーマがある。そしてそれを考えることは、第9条の思想を「お花畑」と揶揄して済ますことも、安保法案を戦争法案と言い換えて煽ることも、ともに違うとする感性につながるはずだ。
ひっかかるべき事柄にひっかかり、自分で考えて対処できるようになるために、2人が共通して強調するのが、「体」、特に肚(はら)と足腰を取り戻すことである。本書43ページと194ページに古の日本人の身体的アベレージを示す写真がある。米俵5俵(300㎏)を担ぐ農家の女性と、艪漕ぎの船で海に出る漁師たちの写真だ。現在の感覚からはにわかに信じがたいが、これが、まだ肚も足腰も備えていた頃の日本人の実際なのだ。
「それまではエンジンなしで漁をしていたわけですけれど、いまの漁師からすれば、手で漕いで沖へ出るなど奇跡のような話だそうです。でも七十年くらい前までは誰しも普通にやっていたことです。そういう普通がなくなると、生活習慣とそれに裏打ちされた体の基礎がなくなります。/だから明治維新以前、百六十年前の人の技を復元したいならば、少なくともそれ以前の生活様式で養われていた身体がスタート地点に立つには必要となります。/やはり実力ある人を見てみると、確実にいまの代よりも一昔前の体にアクセスしています。それが技を遣える人たちの共通項としてうかがえます。」(p193より 光岡氏の発言)
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いわゆる右寄りのプロパガンダにも良い面はあって、安保関連の紛糾が顕在化した昨年秋あたりから、そもそもの日本の精神文化、そもそもの日本人の身体文化への注目が、書籍や一般誌、大手のスポンサードを受けない放送媒体などで増えている。このタイミングで増えてきた理由がネットをはじめとする情報インフラの成熟にあるのか、それとも他に理由があるのか(情報統制勢力の撤収?)はともかく、戦後現在までの総括をGHQの占領政策由来のものと日本古来のものとに仕分けることから始めるのに、本来、右も左もないはずだ。自分たちはかつてどうしていたか。その後、何によってどうなったか。事実を知りたいのである。
(ライター 筒井秀礼)