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スペシャルインタビューSPECIAL INTERVIEW

 
2004年には、ギリシャで開催されたアテネオリンピックにも出場した和田さん。「プロ・アマチュア問わず出場したすべての試合で緊張した」と話す和田さんが、中でも一番緊張したのが、アテネオリンピックの舞台だと言う。
 
 

同じ考えを持って戦えた

 
オリンピックは、本当に緊張する舞台でした。君が代を歌う際も、「こんなに気持ちを込めて歌ったことはない」と思うくらい、日本のために頑張りたいという気持ちがありましたから。ペナントレースもオリンピックも、勝利を目指すということにおいては同じです。でも、実際に出場して、勝利までの過程の考え方に大きな違いがあると感じました。例えば、ペナントレースの場合は、まず自分が活躍しなければいけません。良い成績を残せば、そこにチームの勝利がついてくるという考え方なんです。選手としての評価を上げることも大切ですからね。
 
でも、日本代表として日の丸を背負ったときは、自分自身の活躍は二の次だと思いました。もちろん、僕が打つことでチームの勝利に貢献できるでしょうし、活躍したいという気持ちもありました。でも、それよりも「このチームが勝つためなら何でもしよう」という気持ちが大きかったんです。犠牲心のようなものでしょうか。
 
よく「同じ方向を見て戦おう」といった言葉を聞きますが、それって実は難しいことなんですよね。同じチームに所属していても、それぞれ目指しているものが違うこともありますから。でも、アテネオリンピックに一緒に出場したメンバーは、全員が同じ気持ちを持って戦っていたと思います。誰もが、自分よりもチームの勝利のためを思ってプレーしていました。だからこそ高い結束力がありましたし、本当に良いチームでしたね。
 
残念ながら準決勝で敗北を喫してしまったので、金メダルの可能性がない状態で3位決定戦に臨むことになりました。みんな、モチベーションが落ちた瞬間もあったでしょう。それでも全員が、「最後まで全力を尽くして戦おう」と考えられたことを今でも誇りに思っています。結果として、銅メダルを日本に持ち帰ることができましたしね。

 
2008年に中日ドラゴンズに移籍し、引退する2015年までチームに尽くした和田さん。中日ドラゴンズというチームにどのような思いを持っているのだろうか。
 
 

夢を仕事にした19年間

 
ナゴヤドームが本拠地である中日ドラゴンズは、僕の地元から近かったこともあり、幼い頃からテレビで見ては応援していました。憧れのチームだったんです。だから、僕がFA宣言したときに中日ドラゴンズが手を上げてくれたのは、とても嬉しかったですね。地元の知り合いからも、「球場に試合を観に行ったよ」と声をかけてもらえる機会が増えました。
 
2015年には、2000安打を達成することもできました。その日の対戦相手は、千葉ロッテマリーンズ。ロッテのファンの方々はとても温かい方が多く、たとえ敵チームでも良いプレーが出ると拍手をしてくれるんです。僕の2000安打が達成された瞬間は、ドラゴンズだけでなく、ロッテファンの方々からも祝福していただけました。選手として、とても嬉しいことですよね。
 
その年に引退したことに対し、「引退ではなく移籍でも良かったのでは」と聞かれることもあります。でも、僕としては、その選択肢はありませんでした。ドラゴンズへの入団が決まったときに、「このチームでユニフォームを脱ごう」と決めていたんですよ。だから、翌年の契約を行わない旨を伝えられたときに、迷いなく引退しようと決めました。僕の人生は野球がすべてで、“夢”と呼べるものは野球に関わることだけ。プロ野球選手として活動した期間は、夢を仕事にできた、とても幸せな19年間でしたね。今はまた、心から熱中できる新たな夢を探していますよ。