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書籍の出版など多忙な日々

 
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著者近影
はじめまして! イタリア人のアルベルト・ザッケローニさんが率いたサッカー日本代表、通称ザックジャパンでチームの通訳を務めていた、矢野大輔と申します。今回、こちらのコラムで連載を持つことになりました。タイトルはイタリア語で「il sogno e la passione! (イル ソーニョ エ ラ パッショーネ)」。日本語に訳すと「夢と情熱」という意味なのですが、僕の経歴や体験をご紹介していくことで、タイトルに込めた思いなどを感じていただけると嬉しいです。
 
先に僕の近況をお伝えしておくと、ザッケローニさんが代表監督を退任して以降、日本で様々な仕事をしています。昨年の11月末にはザックジャパン時代に記録していた4年間の日記をまとめた『通訳日記』という書籍を出版させていただきました。また先日、1月13日には『部下にはレアルに行けると説け!!』という本を出しました。
 
昨年から現在にかけて、それぞれの書籍を執筆する作業の他、プロモーション活動を展開。その他、来日したザッケローニさんの講演活動や取材時の通訳を務めたり、僕自身も講演のお話をいただいたりすることがあり、忙しい日々を過ごしています。
 
とはいえ実は僕、フリーの通訳というわけではなく、イタリアのスポーツマネジメント会社の社員なんです。だから、いずれはイタリアに戻って仕事をすることになると思います。では、何で僕がイタリアの会社に所属することになったのか――。その経緯を知っていただくために、まずは10~20代の頃のお話をさせてください。
 
 

セリエAでプレーしたい!

 
僕は小学校高学年から地元のサッカーチームに所属する、サッカー小僧でした。当時は1993年、まさにJリーグがスタートした時期で、サッカー人気が盛り上がっていた頃。1994年には読売ヴェルディ(現、東京ヴェルディ)のスター選手だったカズさんこと三浦知良さんがセリエAのジェノアに移籍。それと時を同じくして、フジテレビで「セリエAダイジェスト」という番組が始まりました。
 
あの頃のセリエAは世界最高峰のリーグと言われていて、数多くのスター選手が所属するリーグでしたから、僕もその番組は毎週必ず見ていました。特に注目していたのはユベントスに所属していたアレッサンドロ・デルピエロ。当時のデルピエロは若きエースとして脚光を浴び始めていた頃で、僕は彼のプレーに釘付けでした。
 
そんなサッカー漬けの日々が続いていた中学2年生の冬、サッカー専門誌を読んでいたら、イタリアへのサッカー留学に関する広告が目に入ったんです。それを見て僕は、「イタリアに行きたい。イタリアでプロになりたい」と思いました。その瞬間に、自分の将来を思い描いていましたね。15歳で単身ブラジルに渡ってプロになったカズさんに自分をなぞらえて、僕もセリエAで活躍して日本代表に選ばれて凱旋帰国。予選を勝ち抜いてワールドカップに出場するんだって。
 
それでさっそく両親に相談しました。「何を言ってるんだ」という感じで最初はまともに聞いてもらえなかったんですけど、何回も話をして、どれだけ自分が本気なのかを説明し続けました。するとある日父親が「本当に行くのであれば、中途半端に投げ出すような帰国の仕方はするなよ」とイタリア行きを許してくれたんです。父親が自分の望みを聞き入れてくれたことが本当に嬉しかったし、「生半可な気持ちで行くわけにはいかない」と覚悟を持つことができました。あの時、両親が僕の思いを理解してくれたからこそ、今の僕がある。だから、ものすごく感謝しています。
 
 

悪戦苦闘も充実の日々

 
そんなわけで僕は、15歳でイタリアのトリノFCの下部組織に留学しました。午前は他の留学生と一緒に練習。午後はイタリア人のチームに混ざって練習。週末に試合をする。そんな日々でしたね。ともかく来る日も来る日もサッカー。最初はレベルの高さについていけず、ショックでした。プレーに馴染むだけでも半年はかかりました。
 
その他、当たり前ですが日本とは生活習慣が違いますから、食事の面などで困ることもありましたし、自分で選んだ道とは言えホームシックになったこともありました。それでも、言葉もわからないまま現地の高校に通い、知り合った様々な人たちにも支えられながら、無我夢中でサッカーに打ち込んでいました。あの頃は、自分がプロになることを少しも疑っていなかったですし、必ずなれると思っていたから、苦しいこともあったけどとても充実した日々でした。
 
20歳になっても相変わらずサッカー漬けでしたが、少し変化があったのは、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めたことです。雇ってくれたのはセリエAのユベントスやインテルミラノ、ACミランのマーチャンダイジングを行う会社で、日本へ輸出するチームグッズの荷役作業などが主な仕事内容。最初はわからないことが多かったので、業務中にミスをして怒られることもありました。とにかく仕事を覚えるのに必死でした。
 
そのようにサッカーだけに集中できない生活が続いて1年くらいが過ぎた頃、「プロになるのは難しいかもしれないな」と感じるようになりました。当時の僕は、「仕事での苦労が多くてサッカーに注力できないから、思うような成果が出せないんだ」と自分に言い訳をしていたと思います。
 
 

なぜ、結果が出せなかったのか

 
振り返ると、そんな言い訳をしていた僕は甘かったと思います。日本代表のメンバーと接してきた今だからこそ、余計にそう思う。代表選手らのすごいところは、自分の目指す目標をきちんと明確にして、そのための課題を毎日必ず、少しずつでも着実にこなしていること。僕にはそれができていなかった気がします。
 
例えばサッカー以外を例に挙げると、川島永嗣選手は語学習得に熱心で、イタリア語の単語を一日に10個覚えると決めたら、必ずやり遂げているんですね。様々な外国語に対してそういう学習法を何年も続けているから彼は現在、何ヶ国語も操ることができる。代表クラスの選手たちはそういう努力を欠かさないんです。言葉にすれば簡単ですけど、プロを目指していた頃の僕は、そうした積み重ねの大事さに気付けていなかったと思います。
 
プロにはなれないかもしれない・・・。そんなことを考えつつ日々を過ごしていた僕に、転機が訪れました。きっかけは2002年の日韓ワールドカップ。憧れていたデルピエロに関わる仕事をすることになります。
 
この続きは次回ご紹介しますので、ぜひお楽しみに!
 
 
 
 

 著者プロフィール  

矢野 大輔 Daisuke Yano

元サッカー日本代表通訳/compact 所属(イタリアのスポーツマネジメント会社)

 経 歴  

1980年7月19日東京都生まれ。イタリアのサッカーリーグ、セリエAでプロサッカー選手になるという夢を抱き、15歳でイタリアに渡る。異国の地で様々な苦難を乗り越えながら、サッカー漬けの青春を送った。22歳でプロサッカー選手の夢は断念したが、知人の勧めでトリノのスポーツマネジメント会社compactに就職。日本とイタリアの企業を仲介する商談通訳などに従事する。2006年にトリノに移籍してきた大黒将志選手の専属通訳に。そして2010年、イタリア人のアルベルト・ザッケローニ氏が日本代表監督に就任したことに伴い、チームの通訳に抜擢される。ブラジルワールドカップまでの4年間、監督と選手が意思疎通を円滑に進めるための重要な役割を担い、監督のみならず選手からも信頼を得る。2014年、ザッケローニ監督の退任と同時にチームを離れ、現在は執筆、講演、メディア出演などを通じて、日本代表時代の経験や自身の思いを伝える活動に取り組んでいる。著書に『通訳日記』(文芸春秋)、『部下にはレアルに行けると説け!!』(双葉社)がある。

 オフィシャルホームページ 

http://daisukeyano.com

 ブログ 

http://ameblo.jp/daisuke-yanoblog

 
(2015.1.21)
 
 
 
 

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